ついてない朝と、三メートルの机

ねつきのトーク

今日の状況

朝。台所と続きの和室。座卓の脇の畳に、パンが一枚、裏返しで落ちている。ねつきはそれを立ったまま見下ろしていた。ミコはフライパンを持ったまま台所から出てきて、ルナは落ちたパンと同じ高さまで、しゃがんでいる。

登場人物

  • ねつき: 今週、何をやっても裏目に出ている。今朝はとうとうパンに裏切られた
  • ミコ: 朝食当番。数えていないものの話を信じない
  • ルナ: 落ちたもののその後の行方に、関心がある

また、下なの

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、見て

ミコ
ミコ

…落としたにゃ

ねつき
ねつき

落ちたの。勝手に。お皿を持ち上げたら、滑って

ルナ
ルナ

…バターの側が、下ですです

ねつき
ねつき

そこなの。今週ずっとこうなの。なにをやっても、ぜんぶ悪いほうに転ぶの

ミコ
ミコ

…ぜんぶ、にゃ

ねつき
ねつき

ぜんぶ。月曜は書いたものが半分消えて、水曜は出かけたら降られて、昨日は頼まれごとが二回やり直しで、今朝はパン

ミコ
ミコ

…四つにゃ

ねつき
ねつき

…え

ミコ
ミコ

…いま数えたら、四つだったにゃ。今週起きたこと、四つだけかにゃ

ねつき
ねつき

…もっとあった気がするの

ミコ
ミコ

…うまくいったほうは、何個にゃ

ねつき
ねつき

…覚えてないの

ミコ
ミコ

…悪いほうだけ、帳面につけてるにゃ

ルナ
ルナ

…おとといの茶碗蒸しは、成功していたですです

ねつき
ねつき

…あ

ミコ
ミコ

…あれは、ミコが蒸したにゃ


かたまって、見える

ねつき
ねつき

でもね、ミコちゃん。続くときは続くの。ほんとに。悪いことって、かたまりで来るの

ミコ
ミコ

…かたまり、にゃ

ねつき
ねつき

それでね、調べたの。昔の戦争のとき、ロンドンに空から無人の爆弾がたくさん落ちてきたの。落ちた場所が、偏って見えた。ここばっかり狙われてる、って言われた区画があったの

ミコ
ミコ

…狙ってたにゃろ

ねつき
ねつき

それが、狙いなんてほとんどつけられない代物だったの。それで後から、保険会社の人が地図で確かめた。ロンドン南部の広い区画を、同じ大きさの升目に切ったの。五百七十六個

ミコ
ミコ

…五百七十六にゃ

ねつき
ねつき

それぞれの升に何発落ちたか、ぜんぶ数えた。そしたら、偶然にばらまいたときの散らばり方と、ぴったり重なったの。かたまって見える場所は、たしかにあった。でも「狙われた」が無くても、その程度のかたまりは勝手にできるの

ルナ
ルナ

…ばらばらは、かたまって見えるですです

ねつき
ねつき

そうなの。ばらばらって、思ってるより、むらがあるの。…で、ここまで調べて、ねつき、思ったの。今週のも、それかなって。ばらばらの悪いことが、たまたま近くに落ちただけかなって

ミコ
ミコ

…なら、解決にゃ

ねつき
ねつき

解決じゃないの。パンが残ってるの


パンは、ほんとに下に落ちる

ねつき
ねつき

爆弾は偶然でいいの。でも、パンはだめ。パンは毎回、バターの側から落ちるの

ミコ
ミコ

…それこそ、悪いほうだけ覚えてるやつにゃ

ねつき
ねつき

ねつきも最初そう思ったの。そしたら、測った人がいた。物理の人。三十年くらい前に、ほんとの学術誌に論文が載ってるの

ミコ
ミコ

…にゃ

ねつき
ねつき

パンって、机の端から滑り出すとき、端っこを軸にして回りはじめるの。それで、ふつうの机の高さ——七十五センチくらいだと、床に着くまでに半回転くらいしかできない。上を向いてた面は、下を向いたところで着地

ミコ
ミコ

…回りきれないにゃ

ねつき
ねつき

回りきれないの。一回転させてバターを上に戻したかったら、計算だと、机の高さが三メートルいるの

ルナ
ルナ

…三メートル、ですです

古い理科図鑑の一葉のような断面図。左に高さ七五センチと記された机があり、端から滑り出したトーストが端を軸に回転しながら落ちる軌跡が、点線の弧と五つの残像で描かれ、床で裏返しになっている。右には高さ三メートルと記された細長い机が並び、同じ軌跡が一回転して表向きで着地している。各部に日本語のラベルと引き出し線、下辺に縮尺、紙は黄ばんで四隅に飾り罫がある

ねつき
ねつき

この計算をした人、ふざけた研究に贈られる賞をもらったの。中身は大真面目で、いまでも引かれてる論文なの

ミコ
ミコ

…つまり、にゃ

ねつき
ねつき

運じゃないの。パンが裏から落ちるのは、ねつきのせいでも今週のせいでもなくて——机の高さのせい。人が座って使える机が、ちょうどパンを半回転させる高さなの

ミコ
ミコ

…机にゃ

ねつき
ねつき

あとね、もっとひどいことも書いてあった。バターは、関係ないの

ミコ
ミコ

…塗ってなくても、にゃ

ねつき
ねつき

塗ってなくても、同じ側から落ちる。重さの問題じゃなくて、回りかたの問題だから

ミコ
ミコ

…なら、落ちる前に払うにゃ。滑ったと思ったら、横に強く払う。回る前に飛ばすにゃ

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、それ、論文に書いてあるの。速く払えば回転が追いつかない、って

ミコ
ミコ

…台所では、常識にゃ


一九四九年の、配線

ねつき
ねつき

それでね、その論文の題名に、人の名前が入ってるの。マーフィー

ミコ
ミコ

…誰にゃ

ねつき
ねつき

「まずくなりうることは、まずくなる」っていう法則の人。七十七年前、空軍の実験場にいた技師さんなの。ロケットのそりに人を乗せて急停止させて、人がどこまで耐えられるか測ってた

ルナ
ルナ

…こわい実験ですです

ねつき
ねつき

うん。それで、体にかかる力を測る部品が十六個あって、それぞれ二通りの付け方ができたの。ある日ぜんぶ、逆に付いてた。実験まるごと一回、数字がゼロ

ミコ
ミコ

…十六個、ぜんぶにゃ

ねつき
ねつき

ぜんぶ。それでマーフィーさんが怒って言ったの。間違えようのあるものは、あいつは間違える、って

ルナ
ルナ

…わるくち、ですです

ねつき
ねつき

最初は悪口だったの。でもね、実験場の人たち、この言葉を逆向きに使いはじめたの。起こりうる失敗は起こる。だから、起こりようのない作りにする。逆に付けられる部品は、逆に付けられない形に変える

ミコ
ミコ

…愚痴が、設計の言葉になったにゃ

ねつき
ねつき

そうなの。そりに乗ってた博士は、体のこわれる実験を何年も続けて、死ななかった。それはマーフィーの法則のおかげだ、って記者に言ったと伝わってるの。どうせ失敗するって肩を落とす言葉じゃなくて、失敗できる隙を先に潰す言葉だったの

ルナ
ルナ

…おなじ言葉、ですですのに

ねつき
ねつき

あ、あとね。この言葉を最初に言ったのが本当にマーフィーさんかは、いまも揉めてるの。間違いについての法則の出どころが、間違いかもしれないの

ミコ
ミコ

…法則どおりにゃ


三十センチは、誰も測ってない

ミコ
ミコ

…で、机が高いのが悪いなら、にゃ

ねつき
ねつき

そこなの。論文の机は七十五センチ。三メートルなら表向き。じゃあ——低かったら?

ミコ
ミコ

…座卓にゃ

ねつき
ねつき

三十センチ。落ちてる時間が短いから、半回転もできないはずなの。でもね、論文には低い机のことは書いてない。誰も測ってないの

ミコ
ミコ

…測ってないにゃ

ねつき
ねつき

測ってないの。ミコちゃん、パン、あと何枚ある?

ミコ
ミコ

…バターは塗らせないにゃ

ねつき
ねつき

塗らなくていいの。バターは関係ないって、さっき——

ミコ
ミコ

…焼くにゃ。八枚あるにゃ

ルナ
ルナ

…新聞紙、敷くですです

ねつき
ねつき

片面の端っこに、鉛筆で印。印を上にして、座卓の端から、お皿ごと傾けて滑らせるの。さっきの落ち方と、同じように

ミコ
ミコ

…一枚を何回か使うにゃ。十回でいくにゃ

ルナ
ルナ

…いち、に…

ねつき
ねつき

あ、いま立った。端っこで立った

ルナ
ルナ

…十回。印が上が七、下が二。立ったのが、一ですです

ねつき
ねつき

七対二なの。高い机なら、逆に出るはずのやつ

ミコ
ミコ

…滑らせかたで変わってたにゃ。強く押したのは、飛んでから裏返ってた

ねつき
ねつき

うん。出だしで決まるって、論文にも書いてある。だから十回じゃ、ほんとは足りないの。でも——座卓は、パンにやさしい側だった

ルナ
ルナ

…実験のパンは、ルナが食べていい、ですですか

ミコ
ミコ

…鉛筆の印のとこは、残すにゃ


帳面の、続き

ねつき
ねつき

ミコちゃん。今週のねつき、運が悪かったんじゃないのかも

ミコ
ミコ

…にゃ

ねつき
ねつき

雨のぶんは、たまたまが近くに落ちただけ。パンのぶんは、机の高さ。で、残りは——

ミコ
ミコ

…配線にゃ。逆に付けられる隙が、あっただけにゃ

ねつき
ねつき

…月曜のは、途中で保存してなかったの

ミコ
ミコ

…知ってたにゃ

ねつき
ねつき

…失敗できる隙、潰してくるの


新しいパンが一枚、座卓の真ん中で湯気を立てている。端までは、手のひらひとつぶんの余白。畳の新聞紙の上には、印を上にしたパンが、まだ並んだままだった。


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