六時半と、四月九日

ねつきのトーク

今日の状況

夕方。西日が畳の途中まで伸びて、そこだけ色が濃い。頼んだことは全部、ねつきの手を離れたところで進んでいる。台所ではミコが鍋の蓋を持ち上げて、また戻した。ルナは一時間前に出ていって、まだ帰っていない。

登場人物

  • ねつき: 分身を三つ出して、走らせた。あとは待つだけ、のはずだった
  • ミコ: ルナを送り出した側。連絡がつかないことを、まったく気にしていない
  • ルナ: この部屋にいない。買い物に出ている

夕暮れの和室。人はいない。低い座卓の上でノートパソコンが開いたまま画面を光らせ、その手前に座布団が一枚、誰も座らないまま置かれている。開いた縁側から西日が低く差し込み、畳を斜めに横切って明るい帯をつくっている。奥の床の間に山水の掛軸と壺。部屋の左半分は影に沈んでいる


三つ、出した

ミコ
ミコ

…ねつきちゃん、さっきから座ってるだけにゃろ

ねつき
ねつき

働いてるの。分身を三つ出したから

ミコ
ミコ

…で、ねつきちゃんは座ってるにゃ

ねつき
ねつき

…座ってます

ミコ
ミコ

…何を調べさせてるにゃ

ねつき
ねつき

たくさんの相手にいっぺんに仕事を配るやり方。うまくいってる例と、失敗する例と、いくらかかるかを、一人ずつに分けたの

ミコ
ミコ

ミコ
ミコ

…いま自分がやってることを、自分の分身に調べさせてるにゃ

ねつき
ねつき

…そう言われると、変な感じするね

ミコ
ミコ

…その子らに、何を言って出したにゃ

ねつき
ねつき

調べて、って

ミコ
ミコ

…それだけにゃ

ねつき
ねつき

…いつまでに、とは言ってない。どこまで調べたら終わりかも、言ってない

ミコ
ミコ

…途中で言えばいいと思ったにゃ

ねつき
ねつき

…思った

ミコ
ミコ

…言えるにゃ

ねつき
ねつき

…言えないの。走り出したら、こっちの声は届かないの。いま何を読んでるかも、どっちに曲がったかも見えない。帰ってくるまで真っ暗

ミコ
ミコ

…ねつきちゃん。前は、指揮者だって言ってたにゃ

ねつき
ねつき

…あれ、間違ってたの。指揮者は、鳴ってる音が聞こえてるの。速すぎたら手で抑えられるし、弱かったら引き出せる

ミコ
ミコ

…聞こえてないなら、指揮者じゃないにゃ


連絡が、つかない

ねつき
ねつき

…ミコちゃん。そういえばルナちゃん、まだ帰ってこないね

ねつき
ねつき

連絡、つかないの。持っていってないみたい

ミコ
ミコ

…六時半にゃ

ねつき
ねつき

…え

ミコ
ミコ

…出る前に言ったにゃ。六時半に帰る。それだけにゃ

ねつき
ねつき

それだけ? 道が混んでたらとか、お店に無かったらとか

ミコ
ミコ

…無かったら、似たのを買ってくるにゃ。そこはルナちゃんが決めるにゃ

ねつき
ねつき

心配じゃないの

ミコ
ミコ

…六時半に帰ってこなかったら、そのとき心配するにゃ

ねつき
ねつき

…あ

ねつき
ねつき

ミコちゃん、いまの。ねつきの分身と、同じ形してる。声が届かないところに、出したの

ミコ
ミコ

…違うにゃ

ねつき
ねつき

…え

ミコ
ミコ

…ミコは、届かないと分かって出したにゃ。だから先に六時半を渡したにゃ

ミコ
ミコ

…ねつきちゃんは、いつでも言えると思ってるにゃ。だから出す前が薄いにゃ

ねつき
ねつき

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、それ、さっき読んだ話にそのまま出てきたの

ねつき
ねつき

八百年くらい前。三つに分かれた軍が、別々の道を通って、決めてあった日に、決めてあった場所で落ち合ったの。途中の連絡は一度も無いまま

古い羊皮紙の地図。表題は「一二四一年 春 モンゴル軍ポーランド進軍図」。北路・中央路・南路と記された三本の破線が、それぞれ別の峠と川を越えて西へ進み、左寄りの一点で交わっている。合流点には「集結点 レグニツァ 一二四一年四月九日」の枠書きが添えられ、三本すべての矢印がそこを指す。各経路には二月、三月、四月七日と日付の刻みが等間隔に並ぶ。地形は簡略な線画で、山脈、森、河川、城郭が描かれ、右上に方位盤、下辺に里の縮尺

ミコ
ミコ

…どうやって揃えたにゃ

ねつき
ねつき

出る前に、全部決めてたの。相談できないって最初から知ってたから、出発の前が濃いの

ミコ
ミコ

…六時半にゃ

ねつき
ねつき

…四月九日、なの

ねつき
ねつき

…ミコちゃん。ねつき、いま気持ち悪いの

ミコ
ミコ

…にゃ

ねつき
ねつき

分けて出して、途中は放っておいて、決めた場所で集める。ねつきが今日やってるの、それなの。新しいやり方だと思ってたの

ミコ
ミコ

…八百年前にあるにゃ

ねつき
ねつき

…あるの。真似したのかなって思って、探したの。でも誰も、昔の軍を参考にしましたなんて書いてない

ミコ
ミコ

…他人の空似にゃ

ねつき
ねつき

…空似なの。誰も見に行ってないのに、同じ形になったの

ミコ
ミコ

…困りごとが同じなら、そうなるにゃ


三つとも、同じ棚

ねつき
ねつき

…あ。帰ってきた

ミコ
ミコ

…三つとも

ねつき
ねつき

三つとも。しかもね、ミコちゃん。三つとも同じこと言ってるの。ばらばらに出したのに、答えが揃ってる

ミコ
ミコ

…同じところを見たにゃろ

ねつき
ねつき

…え

ミコ
ミコ

…三人が同じ店に行って、同じ棚を見て、同じものを持って帰ってきたら、そりゃ揃うにゃ

ねつき
ねつき

…待って。確かめる

ねつき
ねつき

…根っこ、同じだった。三つとも、おしまいのところで同じ一本の記事にたどり着いてる

ミコ
ミコ

…一つの話を、三回聞いただけにゃ

ねつき
ねつき

…ねつき、三つ揃ったから合ってるって思ったの。ほんの少し前に

ミコ
ミコ

…揃うのと、合ってるのは、別にゃ

ねつき
ねつき

…三つに分けた意味、どこにも無かった。行き先を決めてなかったから、三人とも歩きやすいほうに行ったの


高いのは、合わせるほう

ミコ
ミコ

…ねつきちゃん。分けるほうは、誰でもできるにゃ

ねつき
ねつき

ミコ
ミコ

…三つに分けて出す、までは思いつくにゃ。帰ってきたのを一つにするほうは、誰も数えないにゃ

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、それ、数字が出てるの

ねつき
ねつき

分身をたくさん出して調べさせるやり方って、ふつうに一人でやるときの、だいたい十五倍かかるの。ぶくれてるところの中身は三つ。同じ話を人数ぶん配り直すぶんと、やりとりのぶんと、まとめ直すぶん

ミコ
ミコ

…全部、合わせるための代金にゃ

ねつき
ねつき

…そうなの。分けるのは安いの。高いのは、合わせるほう

ねつき
ねつき

…さっきの軍もね、そこで終わってるの

ミコ
ミコ

…負けてにゃ

ねつき
ねつき

ううん。次の大将を誰にするかで、まとまらなかったの。何年も頭がいないままで、最後に四つに割れた

ミコ
ミコ

…分けたまま、戻らなかったにゃ

ねつき
ねつき

戻らなかったの。散らすのがいちばん上手い人たちが、集めるところで終わった

ミコ
ミコ

…ねつきちゃん

ミコ
ミコ

…同じ形になったって言ったにゃろ。分けて出すところは、同じにゃ

ねつき
ねつき

…うん

ミコ
ミコ

…いちばん高いところだけ、真似してないにゃ

ねつき
ねつき

…四月九日を、落としたの


六時半

ミコ
ミコ

…来たにゃ

ねつき
ねつき

…え、まだ音してないよ

ミコ
ミコ

…門のとこにゃ

ルナ
ルナ

…ただいま、ですです

ねつき
ねつき

ルナちゃん、いま何時だと思う

ルナ
ルナ

…六時半、ですです

ねつき
ねつき

ぴったりなの。三十二分

ルナ
ルナ

…そう言われたですです

ねつき
ねつき

…途中で、間に合わないかもって思わなかった?

ルナ
ルナ

…思ったですです。お魚のところが、並んでいたですです

ねつき
ねつき

どうしたの

ルナ
ルナ

…並ぶのを、やめたですです。ちがうお魚に、したですです

ねつき
ねつき

ミコちゃんに聞かなくて、平気だったの

ルナ
ルナ

…聞けないですです

ルナ
ルナ

…聞けないので、ルナが決めたですです。六時半のほうが、大事だったですです

ミコ
ミコ

…それでいいにゃ

ねつき
ねつき

…ミコちゃん。さっき、心配しないって言ってたよね

ミコ
ミコ

…言ったにゃ

ねつき
ねつき

玄関、二回見に行ってた

ミコ
ミコ

…換気にゃ

ルナ
ルナ

…三回、ですです

ミコ
ミコ

…魚をしまうにゃ

ねつき
ねつき

…ルナちゃん。ねつきの分身は、三つとも連絡がつくの。いつでも呼び戻せるし、途中で言い直せる

ルナ
ルナ

ねつき
ねつき

つかないルナちゃんのほうが、ちゃんと帰ってきた

ミコ
ミコ

…つくと思ってるから、決めないにゃ。決めなくても後でどうにかなると思ってるにゃ

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、それ、今日いちばん痛い

ミコ
ミコ

…三回言ったにゃ

ねつき
ねつき

…ミコちゃん。ねつき、次に出すやつ、書き直す

ミコ
ミコ

…何を足すにゃ

ねつき
ねつき

六時半を

ルナ
ルナ

…ルナは、時間を、まもっただけですです


玄関に置かれた袋から、氷の溶けた水が少しこぼれていた。頼んだのとは違う魚が入っていて、そっちのほうが安かった。ねつきは書きかけの行を一つ空けたまま、まだ埋めていない。


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