今日の状況
夜。窓を開けても、外は濡れた匂いしかしない。昼のうちに三度降って、二時には雷まで鳴った。台所には粉が散っていて、鍋の湯が沸きはじめている。ねつきは腕まで白くして、まな板の前に立っていた。ミコはその手元を、さっきから黙って見ている。ルナは椅子の上で膝を抱えて、湯気の立ちのぼる先を目で追っていた。八月十九日。十二日前に、ねつきが自分で数えた日。
登場人物
- ねつき: 十二日、指を折って待っていた。今日は自分が作る側にまわった
- ミコ: 台所を明け渡した側。手順を飛ばすねつきを、腕組みして監督している
- ルナ: 湯気と匂いのほうに関心がある。食べたいものは、別にある
十二日、数えてた

ねつき
天の川のほうの七夕。伝統的七夕っていって、国立天文台が毎年、計算して決めてるの。今年は八月十九日

ミコ
…日照、今日はほとんど無かったにゃ。洗濯物、乾かなかった
縄みたいな麺を、作る

ねつき
索餅。さくべい、って読むの。七夕に食べるものなんだって

ねつき
そうめんの、ずっと前のやつ。千年前の記録に残ってるの。材料はね、小麦粉と、米粉と、塩

ねつき
入れる。小麦粉五百グラムに、米粉百五十グラム。塩が、四十グラム

ミコ
…うどんの倍にゃ。それ、そのまま食べたら塩の塊にゃ

ねつき
そうなの。でもね、茹でたあと、水で洗うって書いてある。洗って、塩気を抜いてから、酢とか味噌とかで和えるの

ミコ
…ああ。塩は、味じゃなくて、保存のためにゃ。乾かして置いとくものにゃろ

ねつき
うん。でも、今日じゃないと意味がないの。明日には、七夕じゃなくなってる


ねつき
それで合ってるの。おととし、博物館の人が復元したときも、三ミリから五ミリになったって。そうめんの祖先だから細いだろう、って思い込んでたのは、ねつきのほうだったの

ミコ
…春に厚岸のを食べたにゃろ。あそこは年じゅう出してるにゃ。世代をずらして育ててるから、夏でも身の入ったのは獲れる

ミコ
…当たり外れが大きいにゃ。いまは産卵の時期と重なってて、そっちに当たったのは中身を使い切ってるにゃ

ミコ
…違うにゃ。痩せたのを出したら、ミコの腕が悪いと思われるにゃ
食べてたけど、理由は知らなかった

ねつき
ミコちゃん。ねつき、これ調べてて、途中で分かんなくなったの

ねつき
なんで七夕に索餅を食べるのか、っていう理由。中国の話が伝わってるの。えらい人の子どもが七月七日に死んで、悪いものになって、熱の出る病気を流行らせた。その子が生きてるとき索餅が好きだったから、供えた、って

ねつき
うん。通ってるんだけど、その話が載ってるはずの中国の本、開いてみたら、載ってないの

ねつき
七夕のことを書いた古い本があって、みんなそれが出典だって言うの。でも中身は、織姫と彦星の話しか書いてない。子どもも、病気も、索餅も、出てこない

ねつき
日本の本には、ちゃんと書いてあるの。「十節記に曰く」って。でもその十節記っていう本、もう残ってないの。誰も現物を見てない

ねつき
それでね、順番がおかしいことに気づいたの。宮中の記録に、寛平二年——八百九十年に、七月七日に索麪を出したって書いてあるの。行事として、もう成立してる

ねつき
その記録には、無いの。子どもの話が本に出てくるのは、そこから三百年くらい後

ねつき
先に食べてて、理由が後から来たの。しかも、その理由の出どころも、いまは無い

ミコ
…この日はこれを食べる、って決まりだけ先にあって、なんでかは誰も言えない。そういうもの、いくらでもあるにゃ
晴れるはずだった日

ねつき
なんで八月にずらすかっていうと、七月七日だと梅雨で、月の形もばらばらだから。旧暦の七日なら、月はいつも半分より細くて、夜中になる前に沈むの。だから空が暗くなる

ねつき
それでね、国立天文台の説明に、こう書いてあるの。読むね——
伝統的七夕の日は梅雨明け後で晴天率は高く、月は夜半前には沈み、その後は天の川がくっきりと見える観察条件となります

ねつき
うん。それでね、ねつき、天気のデータも見に行ったの。雨の量と、気温と、あと雲の量

ねつき
今日の平均雲量のところ、何も入ってないの。雨は八ミリって書いてある。日照は零点九時間って書いてある。でも雲がどれだけあったかは、数字になってない

ねつき
あったのにね。ずっと頭の上にあって、一日じゅう見えてたのに、数えられてないの

ミコ
…何百年先まで、分にゃ。今日の雲は、今日でも数字にならないにゃ
晴れても、見えない

ねつき
でもね、ミコちゃん。ねつき、雲のせいにしようとして、できなくなったの

ねつき
夜空の明るさって、測れるの。数字が小さいほど明るい。二十から二十一で「天の川がよく見られる」、二十一より上で「細かい構造まで分かる」。札幌の市街地は、十六点七から十九

ねつき
届いてないの。十七から十八が「市街地の明るさ」って書かれてる範囲で、ねつきたちが住んでるの、そこ

ねつき
…見えないとまでは、書いてないの。測った年も場所もばらばらだし、この窓から測った人はいないし

ねつき
…でも、空に川があるみたいに見えるやつは、この明るさだと無理。今日が雨じゃなくても、たぶん、そこまでは

ねつき
それも調べた。暗いのは陸別とか、弟子屈とか、名寄。陸別は二十一点九あって、昔の全国調査で六位だったの。……札幌から三百キロ以上あるけど

ねつき
うん。それでね、もっと嫌なこと分かったの。曇ってる日の街の空って、晴れてる日より明るいんだって

ねつき
街の明かりが、雲の底に当たって、跳ね返ってくるの。ベルリンで測った人がいて、晴れた夜が十九、雲でいっぱいの夜が十六点五。十倍、明るくなってた

ねつき
ならないの。ふたをされて、そのふたが、下から照らされてる

ねつき
…街の明かりのせいで、星が見えないんだよ。みんなで暗くすれば見えるのに

ミコ
…ミコが夜に買い物に出て、帰ってこられるのは、あの明かりがあるからにゃ。ルナちゃんが暗い道でこけないのも、あの明かりにゃ

ミコ
…誰かが、誰かの帰り道のために点けたものにゃ。それが積み上がって、空にふたをしてるだけにゃ
手が届くほう

ねつき
…ミコちゃん。今日、変なことになってると思わない?

ねつき
千年前の人が食べてたものは、いま、この鍋の中にあるの。粉と塩と水があれば、作れる。理由は途中で誰かが作って、その出どころも消えたのに、作りかたのほうは残った

ねつき
でも、千年前の人が見てた空は、もう無いの。同じ日を選んで、同じ時刻に月が沈んでも、あの空だけは戻ってこない

ねつき
うん。手で触れるものは、作りなおせる。触れないものは、一回失くしたら、そこまでなの

ミコ
…ねつきちゃん。今日、四国で索餅を供える神社があるにゃろ


ルナ
…優しくないですです。塩辛いのが、好きなだけですです
窓を閉めるとき、ねつきは一度だけ上を見た。雲の底が、街の色でうすく光っている。九時十二分はとっくに過ぎていて、そこに月が無いことだけは、たしかだった。器はもう空になっていた。
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