今日の状況
夜。暑さは居座ったまま、扇風機だけが首を振っている。ねつきはソファでタブレットを覗き込んで、さっきから一人でくつくつ笑っていた。同じ画面を、もう十分は見ている。ミコは冷えた麦茶をふたつ運んできて、その笑い方を、少し不審そうに見ていた。
登場人物
- ねつき: ネットで「全部カニになる」というミームを拾って、大興奮している。与太話のつもりで見始めた
- ミコ: ねつきの怪しい笑いを警戒中。ネットの珍説には、基本、懐疑的。でも、確かめる相手には付き合う

全部、カニになるらしい

ねつき
ミコちゃん、ミコちゃん、これ見て。ネットで今、すごいの流行ってるの。「全部カニになる」

ねつき
生き物。いろんな生き物が、進化すると、どんどんカニになっちゃうんだって。エビとかヤドカリとかが、気づいたらカニ。海が、みんなをカニにしていく

ミコ
…また、そういうネットの与太話にゃ。犬も猫も、そのうちカニになるって言い出すにゃろ

ねつき
ねつきも最初、そう思ったの。カニのコラ画像がいっぱい並んでて、笑ってたんだけど……ちょっと待って、って引っかかって。だって、ちゃんと名前がついてるんだよ、この現象

ねつき
「カニ化」。英語だとcarcinization。1916年、イギリスの動物学者が名前をつけたの。ミームより百年、古いの

ミコ
…百年前に、まじめな学者が、同じことを言ってた、にゃ?

ねつき
うん。名前をつけた人、ボラデイルさん。南極の調査で採ってきた生き物を調べてて、気づいたの。その人の言葉、そのまま残ってるんだけど……読むね
the many attempts of Nature to evolve a crab
(自然が、カニを作ろうとして、幾度もくり返した試み)

ねつき
そこ、ねつきも引っかかったの。「一回カニができた」じゃなくて、「何回も、カニを作ろうとした」。自然が、しつこく、カニを作ろうとしてる
殻を、捨てたヤドカリ

ミコ
…でも、ねつきちゃん。エビがカニになる、って言われても、ぴんと来ないにゃ。別の生き物にゃろ

ミコ
…タラバガニ。あれは、前に、ねつきちゃんが言ってたにゃ。立派なカニに見えて、ほんとはヤドカリの仲間、って

ねつき
覚えててくれたんだ……! そう、それ。足の数が、カニより一対少なくて、ヤドカリのグループ。前に話したのは、そこまでだったよね

ミコ
…分類が、カニじゃない、って話にゃ。それが、どうしたにゃ

ねつき
今日わかったのは、その先なの。なんで、ヤドカリなのに、あんなに立派なカニの形をしてるのか。どうやって、カニになったのか

ねつき
1992年に、ネイチャーっていう有名な科学雑誌に論文が出てて。遺伝子を調べたら、タラバガニの仲間は、ヤドカリのグループの、そのまた内側にいたの。ヤドカリの一種が、殻を捨てて、体を広げて、カニになった

ねつき
ヤドカリって、一億五千万年くらい、ずっと貝殻を借りて暮らしてきたの。お腹が、やわらかくて、ねじれてて、貝の中に丸めて隠すためにそうなってる。ずっと、借家暮らし

ねつき
やめて、自分で硬い甲羅を作って、お腹を胸の下に畳み込んだ。借家を出て、自前の家を、背中に生やしたの。それが、タラバガニ

ミコ
…ミコ、あれを、鍋にして食べてたにゃ。ヤドカリの、大出世を、ぽん酢で
五回、別々に

ミコ
…でも、それは一回の話にゃ。ヤドカリが、たまたまカニになった。それだけにゃろ

ねつき
それがね、ミコちゃん。そこが、この話のいちばん変なところなの。一回じゃないの。少なくとも五回、別々に起きてるの

ねつき
タラバガニは、ヤドカリから。カニダマシっていう子は、ザリガニに近い仲間から。ヤシガニは、また別のヤドカリから。ぜんぶ、親戚じゃないの。血のつながりが違うグループが、それぞれ、勝手に、カニの形になってった

ねつき
してない。住んでる場所も、時代も、ばらばら。それなのに、みんな、同じゴールに着いた。平たい甲羅、畳んだお腹、横歩き。……ミコちゃん、これ、おかしくない?

ねつき
そう! そこなの。一回なら偶然。でも五回、別々の生き物が、同じ形にたどり着いたなら、それはもう、偶然じゃない。何か、理由があるはずなの

ミコ
…同じ答えに、何回もなるなら。それは、その答えが、正しいから、にゃ
同じ海の、同じ宿題

ねつき
ミコちゃん、いま、いいこと言った。「答えが正しいから」。じゃあ、カニの形って、何の答えなんだろう

ミコ
…ねつきちゃん。さっき、大事なこと、言ってたにゃ。ヤドカリは、やわらかいお腹を、貝の中に隠してた

ミコ
…カニは、貝を借りずに、それをやってるにゃ。やわらかいところを、硬い甲羅の下に、畳んで、しまってる。狙われて困るところが、どこにも、はみ出てないにゃ

ミコ
…海の底は、敵だらけにゃ。魚に、タコに。やわらかいところを、一箇所でも見せたら、そこを食われるにゃ。だから、平たくして、低くして、大事なものは全部、下に隠す。横向きなら、岩の隙間にも、すっと入れる

ねつき
海の底で生きていくための、宿題。「どうやって、身を守る?」。その宿題を出されたら、どの生き物も、だいたい同じ答えを書いて出す。……それが、カニ

ミコ
…誰が作っても、煮崩れしないように煮ようと思ったら、行き着く火加減は、だいたい決まってくるにゃ。強すぎたら崩れる。弱すぎたら味が入らない。正解の幅は、狭いにゃ。腕のいい人ほど、同じところに、たどり着く

ねつき
それだ……! ミコちゃん、それすごく近い。同じ問題を、まじめに解いたら、みんな同じ答えになる。進化は、料理と同じで、答え合わせをしてるんだ

カニを、やめたカニ

ねつき
ねつき、なんか、わかってきた。カニの形は、海の底の正解。だから何回でも作られる。……じゃあ、カニって、進化のゴールなんだね。いちばん強い、完成形

ねつき
……ちょっと待って、調べる。「カニ化」の反対……あ。あった。うそでしょ

ねつき
「脱カニ化」。decarcinization。……カニになった生き物が、あとから、カニをやめる進化。これも、一回じゃなくて、何回も起きてるの

ねつき
うん。カニの形って、身を隠して、じっとしてるには最高なの。でも、その代わり、素早く動くのは苦手。もし、隠れるより逃げ足が大事な場所に引っ越したら……カニの形は、もう正解じゃなくなる

ねつき
そう。問題が変われば、答えも変わる。カニの形は「海の底で身を守る」っていう問題の、いちばんの答えだっただけ。問題そのものが変わったら、体は、また作り直される。カニをやめて、別の形に戻っていく

ミコ
…ねつきちゃん。さっき、カニは「完成形」って、言ってたにゃ

ねつき
……言った。取り消す。完成形なんて、なかった。カニは、ゴールじゃなくて、その環境のときの、いちばんいい答え。環境が変われば、答えも書き換わる。ずっと正しい形なんて、どこにもないの

ねつき
ふふ。でも、ほんとにそう思うよ。「これが完成形」って思った瞬間に、たぶん、その形は、もう古くなり始めてるの
ミコが麦茶のグラスを下げて、台所に戻っていった。ねつきはタブレットを閉じて、もう一度、開いた。さっきまでただ笑ってたカニの画像の列が、今度は、別のものに見えた。海が、しつこく、何度も同じ答えを書いては、また消している。その途中の一枚を、たまたま今、覗いていた。