今日の状況
夕方。ねつきはリビングのソファに寝そべって、タブレットで砂漠のドキュメンタリーを観ていた。真っ白な砂の海がえんえんと続く画面を、涼しくなるつもりで眺めていた。ミコは台所で洗い物、ルナは窓際でうずくまっていた。画面の中で、突然、緑の島みたいなものが映った。ヤシの木と、青い水面。ねつきの尻尾が跳ねた。
登場人物
- ねつき: 涼を求めてサハラの映像を観ていたら、オアシスが出てきて叫んだ
- ミコ: 台所から呼ばれて、地下水と蜃気楼の解説を担当することになった
- ルナ: 窓際でずっと外を見ていた。地面の下の話に、一言だけ返す

叫んだ

ねつき
オアシスって何!! なんで砂漠の中に水があるの!!!! そんなのあるわけない!!!!!

ねつき
ミコちゃん見て、これ! さっきまで、ずーっと砂しか映ってなかったの。何百キロも、砂だけ。それなのに、いきなり水たまりがあって、木が生えてるの。おかしいよ、辻褄が合わない

ねつき
ある、って言われても……。だって、雨、降らないんだよね、砂漠って。降らないのに、水が湧いてる。どこから来てるの

ミコ
…地面の下にゃ。砂漠でも、ずっと下の方には水が溜まってる層がある。その層が、たまたま地表に近づく場所があるにゃ。窪地とか、地層が断層で持ち上がってる場所とか。そこに、地下水が滲み出てくるにゃ

ミコ
…あるにゃ。地面の上が乾いてるからって、下も乾いてるとは限らないにゃ
蜃気楼は、水じゃない

ねつき
……ちょっと待って。じゃあね、ミコちゃん。砂漠の遠くに「水があるように見える」やつ。あれ、なんて言うんだっけ

ねつき
それ! あれも地下水なの? 地下から染み出したのが、見えてるの?

ミコ
…光の話にゃ。砂漠の地面がすごく熱くなると、地面のすぐ上の空気だけ、うんと温まるにゃ。温まった空気は、密度が低くなる。光は、密度の違う空気の境目で、曲がるにゃ

ミコ
…遠くの空から降りてきた光が、熱い地面の手前で、下向きから上向きに曲げられるにゃ。それが目に届くと、脳が勝手に「地面に空が映ってる」と読み替える。空が映ってるってことは、水面がある、と思い込むにゃ

ねつき
……じゃあ、ラクダに乗った人が「水だ!」って走っていくと

ミコ
…空を、地面と勘違いしてるだけにゃ。近づいたら、そこも「熱い地面」になる。水は、どこにもない

ねつき
……じゃあね。まとめると、こう? 目に見えるところにある水は、水じゃない。目に見えないところに、本物の水がある

ねつき
でも、そうじゃない? 地面の下にあるほうが本物なの、ねつき、すごく意外
氷河期の雨

ねつき
ミコちゃん。もうひとつ聞いていい? その、地面の下の水って、どのくらいあるの? バケツ一杯くらい? プール一個くらい?

ねつき
じゃあ、調べる。……ドキュメンタリー止めて、検索、と

ねつき
ミコちゃん、これ、ちょっとおかしくない? サハラの下にある地下水、「ヌビア砂岩帯水層」っていうんだけど、面積が二百万平方キロメートル

ねつき
エジプト、リビア、スーダン、チャドの下にまたがってる、地下の湖。水の量は、十五万立方キロメートル

ねつき
ナイル川が五百年間、流れっぱなしになる量、って書いてある

ねつき
でね、ここが変なの。その水、いつ降った雨だと思う?

ねつき
氷河期。サハラが、まだ砂漠じゃなかった頃。緑があって、湖があって、雨が普通に降ってた頃。その頃の雨が、地面に染み込んで、砂岩の層に溜まって、そのまま、今も残ってる

ねつき
ほとんど届かない。今の砂漠は乾きすぎてて、降っても地表で蒸発しちゃう。だから、あの下に溜まってる水は、ぜんぶ、氷河期のお祖父ちゃんの雨。増えないの
二千八百二十キロメートルのストロー

ねつき
それでね、ミコちゃん。もっとびっくりする話があって

ねつき
リビアが、その氷河期の水を、汲み上げて使ってるの。全長二千八百二十キロメートルの地下のパイプを引いて、井戸を千三百本掘って、毎日六百五十万トン

ねつき
「大人工河川」って名前がついてる。リビアの水道の七割が、その汲み上げた水。1950年代に、石油を探してたら、たまたま出てきたんだって

ねつき
……ねえミコちゃん。氷河期の雨を、六百五十万トンずつ、毎日

ねつき
うん。降ってこない水を、地上に出してる。次に貯まるのは、また氷河期になるとき。それって、ねつきたちの世代の話じゃない

ミコ
…ずっと下にあった「地面の下の湖」を、少しずつ、地面の上に引っ張り上げてるにゃ

ねつき
蜃気楼と、逆なんだ。蜃気楼は、水じゃないものを、水に見せてる。ヌビアの水は、水じゃないもの……いや、水なんだけど、地面の下にあるうちは「無いもの」と同じ扱いだったやつを、水にしてる
静かに、ねむってた

ねつき
わっ、ルナちゃん、窓のところにいたの。ずっと静かだから、忘れかけてた

ルナ
…ルナ、地面の下の水って、はじめて知ったですです。ずっと、しずかに、ねむってたですです

ねつき
……そう言われると、うん。ちょっと、悪いことをしてる感じ、する

ルナ
…ルナは、悪いこと、って言ってないですです。ただ、起こしたら、もう、ねむれないですです
見えるものと、見えないもの

ねつき
……最初、ドキュメンタリーで緑の島が出てきたとき、ねつき「あるわけない」って叫んだよね

ねつき
でも本当は、逆だったんだ。「あるわけない」のは、砂漠の遠くに光る、あの水面のほう。「絶対にある」のは、砂漠の下の、見えない水のほう

ミコ
…ねつきちゃんの目には、地表しか、映ってなかったにゃ

ねつき
うん。砂しか見てなかったから、砂しかないと思った。地面の下は、地面の下だから、想像もしなかった

ミコ
…オアシスは、地面の下の湖の、顔を出してる部分にゃ。ずっと下にあるものが、たまたま、そこだけ、地表に届いてるにゃ

ねつき
氷山みたいだね。見えてるのは、ほんの、てっぺんだけ
タブレットのドキュメンタリーは、いつの間にか次のシーンに進んで、また砂の海に戻っていた。何百キロも砂だけの映像を、ねつきはもう、さっきと同じようには見られなかった。あの砂の下で、氷河期の雨が、まだ静かに眠っている。それが本当だと知っただけで、風景の重みが変わった。
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