今日の状況
昼過ぎ。窓の外は、朝からずっと灰色だった。強くはないのに、やまない雨。ねつきはリビングの床に座って、手のひらサイズのスライドパズルを、かちゃかちゃ鳴らしていた。ミコは台所で、乾かないタオルを見て、少し眉を寄せていた。七月の札幌は、洗濯物が乾かなかった。
登場人物
- ねつき: バーチャル妖狐。パズルの14と15を、うっかり入れ替えてしまった
- ミコ: 猫族のメイド。「梅雨はない」と言い切ったあとで、窓の外を見た

梅雨じゃない、はずの雨

ねつき
うん。ねつきも、そう聞いてた。……でも、この雨は、なんて呼べばいいの?

ミコ
…それは、あとにするにゃ。先に、その手のやつ。さっきから、鳴らしてる
14と15だけ、戻らない

ねつき
数字を1から順に並べるパズルなんだけど。1、2、3……ってやってて、最後、14と15だけ、逆になっちゃったの

ねつき
それが、いくら動かしても、戻らないの。もう三十分、かちゃかちゃしてる

ねつき
でね、ねつき、気になって調べたの。そしたら、これ、百四十年くらい前に、同じことで大騒ぎになってたの

ねつき
うん。アメリカで、この「15パズル」が大流行したの。1880年。その少しあとに、有名なパズル作家が、こう言ったの。「14と15だけを入れ替えた配置。これを元に戻せた人に、1000ドルあげます」って

ねつき
当時の1000ドルだから、すごい額。家が買えるくらい。……でもね、ミコちゃん。この賞金、はじめから、誰にも払われないの
払う気のない、賞金

ねつき
さっき、ミコちゃんも戻せなかったでしょ。あれ、ミコちゃんが下手なんじゃないの。誰にも、戻せないの。ぜったいに

ねつき
ふふ、ごめんごめん。でね、これ、ちゃんと数学で証明できるの

ねつき
駒を二つずつ入れ替える回数で考えるの。完成の形に戻すには、偶数回の入れ替えでたどり着ける並びと、奇数回じゃないと無理な並びがあって。この二つは、絶対に行き来できないの

ねつき
たった一回の入れ替え。奇数の側なの。完成の形は、偶数の側。だから、どんなに動かしても、川を渡れない

ねつき
そう、それ。ミコちゃん、言い方うまい。向こう岸に、賞金だけ置いてあるの。橋は、最初から架かってないのに

ミコ
…それ、賞金をかけた本人は、知ってて、やったにゃ?

ねつき
知ってたと思う。しかもね、面白いオチがあるの。その人、あとでこのパズルの特許を取ろうとしたの。そしたら役所に「実際に動く模型を持ってきて」って言われて

ねつき
「解けないと証明されてる配置の模型なんて、作れない」って言って、特許、取れなかったの。自分でかけた「解けない」呪いに、自分の足が引っかかったの
発明した人は、別にいた

ねつき
でね、ミコちゃん。ねつきが、いちばん引っかかったの、そこじゃないの

ねつき
この賞金の話をした有名なパズル作家、実は、15パズルを発明してないの。流行らせてもないの

ねつき
本当に作ったのは、ニューヨークの田舎の、郵便局長さん。名前も、そんなに残ってない人。それが1874年ごろ。数字の駒を並べる遊びを、まわりに見せてたの

ねつき
うん。流行の火をつけたのも、別の人。マサチューセッツの、歯医者さん。1880年に、この歯医者さんが「解けたら賞品あげます」って懸賞を出して、街が熱狂したの。賞品、最初は入れ歯だったんだって

ねつき
歯医者さんだから♪ あとで現金も足したみたいだけど。とにかく、郵便局長さんが作って、歯医者さんが火をつけた

ねつき
流行が終わって十年くらいたってから、「あれ、ぼくが考えたんだよ」って言い始めたの。1891年ごろ。それを、亡くなるまで言い続けた

ねつき
うん。作った郵便局長さんの名前は、ほとんど誰も知らない。火をつけた歯医者さんも。いちばん有名なのは、いちばん遅れて来て、いちばん大きい声で「ぼくのだ」って言った人
ミコちゃん、変えないの?

ねつき
でね、ミコちゃん。「解けない」で有名な話、もうひとつあるの。逆に「答えを聞いても、信じてもらえなかった」やつ

ねつき
テレビのクイズ番組を想像してね。扉が三つ。ひとつだけ、当たり。あと二つは、はずれ

ねつき
うん。ミコちゃんが、ひとつ選ぶ。まだ開けない。そしたら司会者が、残った二つのうち、はずれの扉を、ひとつ開けて見せるの。司会者は、当たりの場所を知ってるから、必ずはずれを開ける

ミコ
…残りは、ミコが選んだ扉と、開けてない扉、二つにゃ

ねつき
そこで司会者が聞くの。「選び直してもいいですよ。変えますか?」って。ミコちゃん、変える?

ミコ
…変えないにゃ。二つに一つ。どっちも半分にゃ。変える意味、ないにゃ

ねつき
ふふ。それがね、変えたほうが、当たりやすいの。倍、当たるの

ねつき
ね。ねつきも、最初そう思った。実はこれ、昔ある人が雑誌で「変えたほうがいい」って書いたら、全米から反論の手紙が、一万通も来たの

ねつき
しかも、大学から来た手紙の、六割以上が「あなたは間違ってる」って。数学の博士号を持った人たちが、便箋にサインまでして、抗議したの
手を動かしたら、負けた

ねつき
ハートのエースが当たり。あと二枚は、ただの数字。ねつきが司会者やるね。ミコちゃんは、三枚から一枚、選んで

ねつき
はい。ねつきは当たりを知ってるから、残り二枚のうち、はずれを一枚めくるね。……はい、これはハズレ。で、ミコちゃんは今の一枚のまま? それとも、もう一枚に変える?

ねつき
何回もやるとね、はっきり分かるの。変えないと、三回に一回しか当たらない。変えると、三回に二回、当たる

ミコ
…最初に選んだとき、当たりを引く見込みは、三枚に一枚にゃ

ミコ
…その「三分の一」は、司会者が一枚めくっても、変わらない。最初に決まってるにゃ。だったら、残りの扉に、三分の二が、まるごと寄る

ねつき
それがね、ミコちゃんだけじゃないの。二十世紀で、いちばん論文を書いたって言われる、天才の数学者がいてね。その人も、この話、言葉で説明されても、頑として認めなかったの

ねつき
うん。まわりが計算式を見せても、納得しなかった。最後は、コンピューターに何万回もやらせて、その結果を見て、やっと「ああ、そうか」って。ミコちゃんと、おんなじ

名前になった人が、いちばん否定した

ねつき
でね、ミコちゃん。この話、名前がついてるの。テレビ番組の、司会者の名前から取ったの

ねつき
うん。実在の人。で、その本人が、あとで新聞のインタビューで、なんて言ったと思う?

ねつき
逆なの。「実際の番組では、そんなルール通りにやってないよ」って

ねつき
さっきの話、大事な前提があったでしょ。「司会者は、必ず、はずれの扉を開ける」って。あれがあるから、三分の二になるの

ねつき
でも本物の司会者は、「ぼくは、開けないこともできる。わざと開けて揺さぶることも、開けずに進むこともできる。ぼくの気分しだいだ」って言ったの。だから「その計算は、ぼくの番組には当てはまらない」って

ねつき
そうなの。しかもね、この問題、そもそも司会者の名前がつく前に、別の研究者が十五年も前に考えてたの。名前をつけた人でも、広めた人でもない人が、最初に思いついてた

ミコ
…作った人と、名前になった人が、別。パズルの郵便局長と、有名な作家。今度は、最初の研究者と、司会者にゃ
それで、この雨は

ミコ
…蝦夷は、北海道の古い呼び名にゃ。それに、梅雨。六月の終わりから七月に、こういう、しとしと寒い雨が続く年がある。それを、蝦夷梅雨、と呼ぶにゃ

ミコ
…ないにゃ。気象台は、梅雨入りも、梅雨明けも、北海道だけは、はじめから発表しない。「梅雨のない北海道を除く」って、ちゃんと書いてあるにゃ

ミコ
…にゃ。だから「蝦夷梅雨」は、お役所の言葉じゃない。誰かが正式に決めた名前じゃないにゃ

ミコ
…分からないにゃ。誰、とは言えない。ここに住んでる人が、寒くて、じめじめして、乾かない洗濯物を見ながら、いつのまにか、そう呼んでた

ミコ
…いない。でも、名前は、ある。使う範囲も、人によって、ちょっとずつ違うにゃ。俗称だから
三つとも、誰かがいない

ねつき
ミコちゃん。ねつき、今日の三つ、つながった気がする

ねつき
パズルは、作った人が、名前に残らなかった。あとから「ぼくのだ」って言った人の名前になった

ミコ
…扉の話は、名前になった本人が、「それ、ぼくのやり方じゃない」って否定したにゃ

ねつき
でも、ずれ方が、三つとも違うの。パズルは、名前が本物を追い越した。扉は、名前が本物に置いていかれた。雨は……名前のほうが先に、勝手に生まれた

ねつき
うん。作った人と、名づけた人と、本物。ぜんぶ、別の場所にいるの

ねつき
そうだね。名前がお役所になくても、降ってるものは、降ってる。乾かない洗濯物は、乾かない
窓の外は、まだ灰色だった。ねつきは、戻らないスライドパズルを、14と15を逆にしたまま、そっとテーブルに置いた。これはこれで、正しい形の、ひとつなのかもしれなかった。ミコは、乾かないタオルを取り込んで、もう一枚、乾いたのを出してきた。名前があってもなくても、雨はやまない。蝦夷、という古い名前だけが、灰色の空に、少し似合っていた。
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