名前をつけた人は、そこにいない

ねつきのトーク

今日の状況

昼過ぎ。窓の外は、朝からずっと灰色だった。強くはないのに、やまない雨。ねつきはリビングの床に座って、手のひらサイズのスライドパズルを、かちゃかちゃ鳴らしていた。ミコは台所で、乾かないタオルを見て、少し眉を寄せていた。七月の札幌は、洗濯物が乾かなかった。

登場人物

  • ねつき: バーチャル妖狐。パズルの14と15を、うっかり入れ替えてしまった
  • ミコ: 猫族のメイド。「梅雨はない」と言い切ったあとで、窓の外を見た

昼過ぎの薄暗いリビング。窓に細い雨の筋が流れ、外は灰色。ねつきが床に座って、手のひらサイズのスライドパズルを両手で持ち、少し困った顔で数字の駒を見ている。奥の台所には、干したままのタオルが下がっている。照明はついているのに、部屋は昼なのに薄暗い


梅雨じゃない、はずの雨

ねつき
ねつき

ミコちゃん。これ、梅雨みたいだね

ミコ
ミコ

…北海道に、梅雨はないにゃ

ねつき
ねつき

でも、朝からずっと降ってるよ

ミコ
ミコ

…降ってるにゃ

ねつき
ねつき

ふふ。ミコちゃん、いま、ちょっと困った顔した

ミコ
ミコ

…困ってないにゃ。梅雨は、ない。それは、本当にゃ

ねつき
ねつき

うん。ねつきも、そう聞いてた。……でも、この雨は、なんて呼べばいいの?

ミコ
ミコ

…それは、あとにするにゃ。先に、その手のやつ。さっきから、鳴らしてる

ねつき
ねつき

あ。……これ、ねつき、やっちゃったの


14と15だけ、戻らない

ねつき
ねつき

数字を1から順に並べるパズルなんだけど。1、2、3……ってやってて、最後、14と15だけ、逆になっちゃったの

ミコ
ミコ

…入れ替えれば、いいにゃ

ねつき
ねつき

それが、いくら動かしても、戻らないの。もう三十分、かちゃかちゃしてる

ミコ
ミコ

…貸してみるにゃ

ミコ
ミコ

ミコ
ミコ

…戻らないにゃ

ねつき
ねつき

でしょ? ミコちゃんでも、戻らないの

ねつき
ねつき

でね、ねつき、気になって調べたの。そしたら、これ、百四十年くらい前に、同じことで大騒ぎになってたの

ミコ
ミコ

…百四十年

ねつき
ねつき

うん。アメリカで、この「15パズル」が大流行したの。1880年。その少しあとに、有名なパズル作家が、こう言ったの。「14と15だけを入れ替えた配置。これを元に戻せた人に、1000ドルあげます」って

ミコ
ミコ

…千ドル。今の、いくらにゃ

ねつき
ねつき

当時の1000ドルだから、すごい額。家が買えるくらい。……でもね、ミコちゃん。この賞金、はじめから、誰にも払われないの

ミコ
ミコ

…にゃ?


払う気のない、賞金

ねつき
ねつき

さっき、ミコちゃんも戻せなかったでしょ。あれ、ミコちゃんが下手なんじゃないの。誰にも、戻せないの。ぜったいに

ミコ
ミコ

…下手とは、言ってないにゃ

ねつき
ねつき

ふふ、ごめんごめん。でね、これ、ちゃんと数学で証明できるの

ミコ
ミコ

…聞くにゃ

ねつき
ねつき

駒を二つずつ入れ替える回数で考えるの。完成の形に戻すには、偶数回の入れ替えでたどり着ける並びと、奇数回じゃないと無理な並びがあって。この二つは、絶対に行き来できないの

ミコ
ミコ

…14と15だけ、ひっくり返すのは

ねつき
ねつき

たった一回の入れ替え。奇数の側なの。完成の形は、偶数の側。だから、どんなに動かしても、川を渡れない

ミコ
ミコ

…岸が、違うにゃ

ねつき
ねつき

そう、それ。ミコちゃん、言い方うまい。向こう岸に、賞金だけ置いてあるの。橋は、最初から架かってないのに

ミコ
ミコ

…それ、賞金をかけた本人は、知ってて、やったにゃ?

ねつき
ねつき

知ってたと思う。しかもね、面白いオチがあるの。その人、あとでこのパズルの特許を取ろうとしたの。そしたら役所に「実際に動く模型を持ってきて」って言われて

ミコ
ミコ

…動く模型

ねつき
ねつき

「解けないと証明されてる配置の模型なんて、作れない」って言って、特許、取れなかったの。自分でかけた「解けない」呪いに、自分の足が引っかかったの

ミコ
ミコ

…自業自得にゃ


発明した人は、別にいた

ねつき
ねつき

でね、ミコちゃん。ねつきが、いちばん引っかかったの、そこじゃないの

ミコ
ミコ

…にゃ

ねつき
ねつき

この賞金の話をした有名なパズル作家、実は、15パズルを発明してないの。流行らせてもないの

ミコ
ミコ

…にゃ?

ねつき
ねつき

本当に作ったのは、ニューヨークの田舎の、郵便局長さん。名前も、そんなに残ってない人。それが1874年ごろ。数字の駒を並べる遊びを、まわりに見せてたの

ミコ
ミコ

…郵便局長

ねつき
ねつき

うん。流行の火をつけたのも、別の人。マサチューセッツの、歯医者さん。1880年に、この歯医者さんが「解けたら賞品あげます」って懸賞を出して、街が熱狂したの。賞品、最初は入れ歯だったんだって

ミコ
ミコ

…入れ歯にゃ?

ねつき
ねつき

歯医者さんだから♪ あとで現金も足したみたいだけど。とにかく、郵便局長さんが作って、歯医者さんが火をつけた

ミコ
ミコ

…有名なパズル作家は

ねつき
ねつき

流行が終わって十年くらいたってから、「あれ、ぼくが考えたんだよ」って言い始めたの。1891年ごろ。それを、亡くなるまで言い続けた

ミコ
ミコ

…作ってない人の名前だけが、残ったにゃ

ねつき
ねつき

うん。作った郵便局長さんの名前は、ほとんど誰も知らない。火をつけた歯医者さんも。いちばん有名なのは、いちばん遅れて来て、いちばん大きい声で「ぼくのだ」って言った人


ミコちゃん、変えないの?

ねつき
ねつき

でね、ミコちゃん。「解けない」で有名な話、もうひとつあるの。逆に「答えを聞いても、信じてもらえなかった」やつ

ミコ
ミコ

…にゃ

ねつき
ねつき

テレビのクイズ番組を想像してね。扉が三つ。ひとつだけ、当たり。あと二つは、はずれ

ミコ
ミコ

…ひとつ、選ぶにゃ

ねつき
ねつき

うん。ミコちゃんが、ひとつ選ぶ。まだ開けない。そしたら司会者が、残った二つのうち、はずれの扉を、ひとつ開けて見せるの。司会者は、当たりの場所を知ってるから、必ずはずれを開ける

ミコ
ミコ

…残りは、ミコが選んだ扉と、開けてない扉、二つにゃ

ねつき
ねつき

そこで司会者が聞くの。「選び直してもいいですよ。変えますか?」って。ミコちゃん、変える?

ミコ
ミコ

…変えないにゃ。二つに一つ。どっちも半分にゃ。変える意味、ないにゃ

ねつき
ねつき

ふふ。それがね、変えたほうが、当たりやすいの。倍、当たるの

ミコ
ミコ

…おかしいにゃ。二つに一つが、なんで倍になるにゃ

ねつき
ねつき

ね。ねつきも、最初そう思った。実はこれ、昔ある人が雑誌で「変えたほうがいい」って書いたら、全米から反論の手紙が、一万通も来たの

ミコ
ミコ

…一万通

ねつき
ねつき

しかも、大学から来た手紙の、六割以上が「あなたは間違ってる」って。数学の博士号を持った人たちが、便箋にサインまでして、抗議したの

ミコ
ミコ

…ミコと、同じことを言ったにゃ

ねつき
ねつき

……うん。でね、雑誌に書いた人が、正しかったの


手を動かしたら、負けた

ミコ
ミコ

…納得、いかないにゃ

ねつき
ねつき

じゃあ、やってみよ。トランプ、持ってくる

ねつき
ねつき

ハートのエースが当たり。あと二枚は、ただの数字。ねつきが司会者やるね。ミコちゃんは、三枚から一枚、選んで

ミコ
ミコ

…これにするにゃ

ねつき
ねつき

はい。ねつきは当たりを知ってるから、残り二枚のうち、はずれを一枚めくるね。……はい、これはハズレ。で、ミコちゃんは今の一枚のまま? それとも、もう一枚に変える?

ミコ
ミコ

…変えないにゃ

ねつき
ねつき

はい、オープン。……ハズレ。もう一回やろ

ミコ
ミコ

…変えない

ねつき
ねつき

ハズレ。次

ミコ
ミコ

…今度は、変えるにゃ

ねつき
ねつき

……当たり

ミコ
ミコ

ねつき
ねつき

何回もやるとね、はっきり分かるの。変えないと、三回に一回しか当たらない。変えると、三回に二回、当たる

ミコ
ミコ

…最初に選んだとき、当たりを引く見込みは、三枚に一枚にゃ

ねつき
ねつき

うん

ミコ
ミコ

…その「三分の一」は、司会者が一枚めくっても、変わらない。最初に決まってるにゃ。だったら、残りの扉に、三分の二が、まるごと寄る

ねつき
ねつき

そう! ミコちゃん、手を動かしたら、一瞬で見えた

ミコ
ミコ

…頭で聞いてたときは、おかしいと思ってたにゃ

ねつき
ねつき

それがね、ミコちゃんだけじゃないの。二十世紀で、いちばん論文を書いたって言われる、天才の数学者がいてね。その人も、この話、言葉で説明されても、頑として認めなかったの

ミコ
ミコ

…天才が

ねつき
ねつき

うん。まわりが計算式を見せても、納得しなかった。最後は、コンピューターに何万回もやらせて、その結果を見て、やっと「ああ、そうか」って。ミコちゃんと、おんなじ

ミコ
ミコ

…手を、動かすまでにゃ

リビングの床に置かれた三枚のトランプ。真ん中の一枚だけ表になってハートのエース、両端の二枚は伏せてある。少し離れた場所に、めくったハズレのカードが一枚、伏せて置いてある。窓の外はまだ雨、木目の床に観葉植物と本棚がうっすら見える


名前になった人が、いちばん否定した

ねつき
ねつき

でね、ミコちゃん。この話、名前がついてるの。テレビ番組の、司会者の名前から取ったの

ミコ
ミコ

…本物の、司会者がいたにゃ

ねつき
ねつき

うん。実在の人。で、その本人が、あとで新聞のインタビューで、なんて言ったと思う?

ミコ
ミコ

…「変えたほうがいい」にゃ?

ねつき
ねつき

逆なの。「実際の番組では、そんなルール通りにやってないよ」って

ミコ
ミコ

…にゃ?

ねつき
ねつき

さっきの話、大事な前提があったでしょ。「司会者は、必ず、はずれの扉を開ける」って。あれがあるから、三分の二になるの

ミコ
ミコ

…必ず、開けるから、にゃ

ねつき
ねつき

でも本物の司会者は、「ぼくは、開けないこともできる。わざと開けて揺さぶることも、開けずに進むこともできる。ぼくの気分しだいだ」って言ったの。だから「その計算は、ぼくの番組には当てはまらない」って

ミコ
ミコ

…名前を貸した本人が、その前提を、壊したにゃ

ねつき
ねつき

そうなの。しかもね、この問題、そもそも司会者の名前がつく前に、別の研究者が十五年も前に考えてたの。名前をつけた人でも、広めた人でもない人が、最初に思いついてた

ミコ
ミコ

…さっきの、パズルと、同じにゃ

ねつき
ねつき

……あ

ミコ
ミコ

…作った人と、名前になった人が、別。パズルの郵便局長と、有名な作家。今度は、最初の研究者と、司会者にゃ


それで、この雨は

ねつき
ねつき

ミコちゃん。ねつき、さっきの、まだ聞いてないの

ミコ
ミコ

…にゃ

ねつき
ねつき

この雨。梅雨じゃないんだよね。じゃあ、何なの?

ミコ
ミコ

…蝦夷梅雨、にゃ

ねつき
ねつき

えぞ、つゆ

ミコ
ミコ

…蝦夷は、北海道の古い呼び名にゃ。それに、梅雨。六月の終わりから七月に、こういう、しとしと寒い雨が続く年がある。それを、蝦夷梅雨、と呼ぶにゃ

ねつき
ねつき

名前、あるんだ。……でも、さっき、梅雨はないって

ミコ
ミコ

…ないにゃ。気象台は、梅雨入りも、梅雨明けも、北海道だけは、はじめから発表しない。「梅雨のない北海道を除く」って、ちゃんと書いてあるにゃ

ねつき
ねつき

除く、って、決まってるの

ミコ
ミコ

…にゃ。だから「蝦夷梅雨」は、お役所の言葉じゃない。誰かが正式に決めた名前じゃないにゃ

ねつき
ねつき

じゃあ、誰が名づけたの?

ミコ
ミコ

…分からないにゃ。誰、とは言えない。ここに住んでる人が、寒くて、じめじめして、乾かない洗濯物を見ながら、いつのまにか、そう呼んでた

ねつき
ねつき

名づけ親が、いないんだ

ミコ
ミコ

…いない。でも、名前は、ある。使う範囲も、人によって、ちょっとずつ違うにゃ。俗称だから


三つとも、誰かがいない

ねつき
ねつき

ミコちゃん。ねつき、今日の三つ、つながった気がする

ミコ
ミコ

…にゃ

ねつき
ねつき

パズルは、作った人が、名前に残らなかった。あとから「ぼくのだ」って言った人の名前になった

ミコ
ミコ

…扉の話は、名前になった本人が、「それ、ぼくのやり方じゃない」って否定したにゃ

ねつき
ねつき

そして、この雨は、名づけ親が、そもそもいない

ミコ
ミコ

…名前と、本物が、三回とも、ずれてるにゃ

ねつき
ねつき

でも、ずれ方が、三つとも違うの。パズルは、名前が本物を追い越した。扉は、名前が本物に置いていかれた。雨は……名前のほうが先に、勝手に生まれた

ミコ
ミコ

…名前をつけた人は、たいてい、その場にいないにゃ

ねつき
ねつき

うん。作った人と、名づけた人と、本物。ぜんぶ、別の場所にいるの

ミコ
ミコ

…でも、この雨は、ちゃんと、ここに降ってるにゃ

ねつき
ねつき

そうだね。名前がお役所になくても、降ってるものは、降ってる。乾かない洗濯物は、乾かない

ミコ
ミコ

…それは、困るにゃ


窓の外は、まだ灰色だった。ねつきは、戻らないスライドパズルを、14と15を逆にしたまま、そっとテーブルに置いた。これはこれで、正しい形の、ひとつなのかもしれなかった。ミコは、乾かないタオルを取り込んで、もう一枚、乾いたのを出してきた。名前があってもなくても、雨はやまない。蝦夷、という古い名前だけが、灰色の空に、少し似合っていた。


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