山から下りてこない

ねつきのトーク

今日の状況

午後三時。窓は開いているのに、風が入ってこない。ねつきはリビングの床にべたっと寝そべって、扇風機の首振りを目で追っていた。ミコは台所で、麦茶のポットの結露を、ふきんで押さえていた。ふきんが、すぐ湿った。温度計は27℃を指している。それなのに、空気が重い。

登場人物

  • ねつき: 毛皮組。夏毛スリムでも尻尾55cm・大きな狐耳の物理があり、湿度に敵わない
  • ミコ: 札幌生まれの猫又。祖母から「昔の札幌の夏」を聞いて育った側で、通説の生き証人

午後の薄暗いリビング。ねつきが木の床にお腹をつけて寝そべり、顔だけ上げて扇風機を見ている。金色のふさふさ尻尾が力なく床に広がる。手前に汗をかいた麦茶のグラス、奥の台所にミコの後ろ姿と湿ったふきん。窓は開いているが、レースカーテンは微動だにしない。窓の外は灰色がかった白い空


動きたくない、動けない

ねつき
ねつき

…ミコちゃん。床、ぬるい

ミコ
ミコ

…木の床は、湿気を吸うにゃ。ひんやりしないにゃ、今日は

ねつき
ねつき

尻尾が、重い。冬毛じゃないのに、湿ってふくらんでる

ミコ
ミコ

…ふきん、絞ったばかりなのに、もう乾かないにゃ

ねつき
ねつき

温度計、見た? 27℃なの。それなのに、なんでこんなに息が重いの

ミコ
ミコ

…こういう日は、札幌でも、ないわけじゃないにゃ。あるにゃ。あるけど…

ねつき
ねつき

けど?

ミコ
ミコ

…こんなに続かないにゃ、いつもの年は


カラッとしてる、って言ってなかった?

ねつき
ねつき

ねえミコちゃん。北海道の夏って、カラッとしてる、って、みんな言うよね

ミコ
ミコ

…言うにゃ。ミコも、そう聞いて育ったにゃ

ねつき
ねつき

でも、今日、カラッとしてない。ぜんぜん

ミコ
ミコ

…してないにゃ

ねつき
ねつき

ねつき、気になって、気象庁の記録、引いてみたの。今日、札幌の平均湿度、92パーセントだって

ミコ
ミコ

…92

ねつき
ねつき

一昨日から、こんなの。10日が91、11日が93、12日が89、13日が88、今日が92。ぜんぶ、八割九割

ミコ
ミコ

…一週間、乾いてない、にゃ

ねつき
ねつき

しかもね、最低気温、9日から今日まで、ずっと20℃を切ってないの。夜も、冷えない

ミコ
ミコ

…おかしいにゃ。札幌の夏は、夜になると涼しくなるはずにゃ

ねつき
ねつき

…うん。それが、しなくなってる


気象台が数えていなかった夜

ねつき
ねつき

熱帯夜って、知ってる? 最低気温が、25℃を下回らない夜のこと

ミコ
ミコ

…本州の話にゃ。札幌には、そういう夜は、なかった

ねつき
ねつき

うん。ほとんど、なかったの。札幌の気象観測が始まったのが、1879年。明治12年

ミコ
ミコ

…ミコの、おばあちゃんが、屯田兵と一緒に琴似に入った頃にゃ

ねつき
ねつき

…そうなんだ

ねつき
ねつき

それから、100年以上、熱帯夜が観測されたのは、たった二回だけ。1981年に1日と、1985年に1日

ミコ
ミコ

…百年で、二日

ねつき
ねつき

うん。だから札幌の気象台は、そもそも「熱帯夜」って数え方に、あんまり意味を持たせてこなかったの。数えるほど、なかったから

ミコ
ミコ

…なかった、けど

ねつき
ねつき

2019年に3日。2021年に4日。2023年に、7日。過去最多。去年も2日。急に、増えてる

ミコ
ミコ

…百年で二日だったものが、5年で16日にゃ

ねつき
ねつき

…うん


湿度計は、温度計より正直

ミコ
ミコ

…ねつきちゃん。ひとつ、聞くにゃ

ねつき
ねつき

なに?

ミコ
ミコ

…今日の27℃と、本州の30℃、どっちがつらいにゃ

ねつき
ねつき

…え、今日、な気がする

ミコ
ミコ

…温度計は、負けてる。それなのに、今日の方がつらい。なぜにゃ

ねつき
ねつき

…湿度、だよね

ミコ
ミコ

…にゃ。汗が、蒸発しないにゃ。だから、体温が逃げない

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、そこは強い

ミコ
ミコ

…台所は、湿度と付き合う仕事にゃ。梅シロップの瓶、乾いた日に開けないと、蓋の内側で結露して、カビるにゃ。湿度は、温度より、料理を壊すにゃ

ねつき
ねつき

ふふ。ミコちゃんの説明、料理を通ると、ぐっと近くなるね

ミコ
ミコ

…茶化してないにゃ?

ねつき
ねつき

茶化してないよ、ほんとに

リビングのテーブルに置かれたアナログの湿度計と温度計。温度計の針は27℃を指し、湿度計の針は93%の位置にある。文字盤の湿度側は右端の赤い「不快」領域に大きく食い込んでいる。手前に汗をかいたガラスのコップ、コップの外側を水滴がゆっくり伝っている。奥は薄暗く湿ったリビング


「カラッと」の正体

ねつき
ねつき

でね、ミコちゃん。もうひとつ、面白いこと分かったの。「札幌は湿度が低い」って、実は、そんなに正しくないんだって

ミコ
ミコ

…にゃ?

ねつき
ねつき

気象台の平年値だとね、札幌の湿度は、東京と同じか、ちょっと高いくらい。8月の平均湿度、両方76パーセント、なんて年もあったの

ミコ
ミコ

…同じ、にゃ?

ねつき
ねつき

うん。じゃあ、なんで「カラッと」って言われてきたか。それは、湿度じゃなくて、気温の方だったの。札幌の夏は、東京より4℃も5℃も涼しくて、夜になるとちゃんと下がる。空気の中の水の量じゃなくて、気温が低かったから、水蒸気が「重く」ならなかった。だから、カラッと感じた

ミコ
ミコ

…湿度が低かったから涼しかった、じゃなくて。涼しかったから湿度が気にならなかった、にゃ

ねつき
ねつき

そう、そう! 順番が、逆だったの。「カラッと」の正体は、気温だったんだ

ミコ
ミコ

…じゃあ、気温が上がったら

ねつき
ねつき

…湿度が同じでも、蒸し暑くなる。ずっと持ってた「カラッと」を、支えてた足場が、崩れる


エアコン、うちにはない

ミコ
ミコ

…ねつきちゃん。うちのリビング、エアコン、ないにゃ

ねつき
ねつき

…ないね

ミコ
ミコ

…北海道は、ずっと、そうだったにゃ。うちだけじゃない

ねつき
ねつき

そうなの。ちょっと調べたら、北海道のエアコン普及率、ダイキンの調査でも60パーセントを切ってる。全国は90パーセント超えてるのに

ミコ
ミコ

…4割の家に、ない

ねつき
ねつき

うん。でね、10年前の国の調査だと、26.6パーセントだったの。それでもここ10年で倍以上に増えた

ミコ
ミコ

…急に、増えてるにゃ

ねつき
ねつき

うん。でも、今、設置業者さんが足りなくて、頼んでも1か月待ちだって。ダイキンさんは、工業高校にエアコン寄贈して、実習で据え付けを教え始めた

ミコ
ミコ

…高校で、教える

ねつき
ねつき

うん。「エアコンのない街」から、「エアコンを付けたいけど付けられない街」に、なってる


山から、下りてこない

ミコ
ミコ

…ねつきちゃん

ねつき
ねつき

うん

ミコ
ミコ

…ミコの、おばあちゃんが、琴似に入ったの、1875年頃にゃ。屯田兵の一次入植と一緒に、猫又の一族が数匹、東北から連れてこられて

ねつき
ねつき

…そんな昔から

ミコ
ミコ

…にゃ。おばあちゃんは、若い頃の話を、たまにしてくれたにゃ。夏の琴似の話、ミコ、覚えてるにゃ

ねつき
ねつき

…聞いていい?

ミコ
ミコ

…真夏でも、夕方になると、山から風が下りてきたにゃ。畑をすーっと抜けて、家の窓を通って、反対側の窓から出ていった。それで、家じゅうが涼しくなった

ねつき
ねつき

…窓を、両側開けとくだけ

ミコ
ミコ

…にゃ。屯田兵の家は、風の通り道に建てるのが基本だった、って、おばあちゃんは言ってたにゃ

ねつき
ねつき

…家の建て方から、涼しくする前提だったんだ

ミコ
ミコ

…でも、今日は、その風、下りてこないにゃ

ねつき
ねつき

…うん

ミコ
ミコ

…窓、両側開けてるにゃ。おばあちゃんの言うとおりにゃ。それなのに、動かない

ねつき
ねつき

…空気が、重すぎて、動けないのかも

ミコ
ミコ

…山の空気と、平地の空気に、温度差があるから、風は下りてくるにゃ。山も熱くなったら、温度差がなくなる。風の吹きようが、ない

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、それ、150年目に見えたやつだ


ミコが折れた

ミコ
ミコ

…ねつきちゃん

ねつき
ねつき

うん

ミコ
ミコ

…ご主人様が帰ってきたら、聞いてみるにゃ

ねつき
ねつき

なにを?

ミコ
ミコ

…エアコンの、見積もり

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、いいの?

ミコ
ミコ

…よくないにゃ。よくないけど。よくないと、言ってる場合じゃないにゃ

ねつき
ねつき

おばあちゃんに、悪いって、思ってる?

ミコ
ミコ

…少しにゃ。山からの風が抜けるはずの家に、外の空気を切って室外機で回す機械を、入れる。おばあちゃんが、聞いたら

ミコ
ミコ

…でも、おばあちゃんは、新しい道具を、試す人だったにゃ。古いものと、比べて、残すべきものを、選ぶ人だった。ミコは、選ばれた結果だけ、受け取ってた

ねつき
ねつき

…選ぶ、方をやってなかった、って

ミコ
ミコ

…にゃ。おばあちゃんは、今日みたいな日を経験したら、たぶん、真っ先にエアコンを見に行ったにゃ。「山から風が下りてくるから、いらん」なんて、言わなかった

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、それ、いま気づいたの?

ミコ
ミコ

…今日、気づいたにゃ。今日、風が吹かなかったから


夕方になっても、風は起きなかった。ねつきは寝そべったまま、扇風機の首振りをまだ目で追っていた。ミコは湿ったふきんを絞り直して、しばらく黙って外を見ていた。150年前の畑を抜けていた風は、たぶん、どこかで途切れた。


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