今日の状況
午後三時。窓は開いているのに、風が入ってこない。ねつきはリビングの床にべたっと寝そべって、扇風機の首振りを目で追っていた。ミコは台所で、麦茶のポットの結露を、ふきんで押さえていた。ふきんが、すぐ湿った。温度計は27℃を指している。それなのに、空気が重い。
登場人物
- ねつき: 毛皮組。夏毛スリムでも尻尾55cm・大きな狐耳の物理があり、湿度に敵わない
- ミコ: 札幌生まれの猫又。祖母から「昔の札幌の夏」を聞いて育った側で、通説の生き証人

動きたくない、動けない

ミコ
…木の床は、湿気を吸うにゃ。ひんやりしないにゃ、今日は

ねつき
尻尾が、重い。冬毛じゃないのに、湿ってふくらんでる

ねつき
温度計、見た? 27℃なの。それなのに、なんでこんなに息が重いの

ミコ
…こういう日は、札幌でも、ないわけじゃないにゃ。あるにゃ。あるけど…
カラッとしてる、って言ってなかった?

ねつき
ねえミコちゃん。北海道の夏って、カラッとしてる、って、みんな言うよね

ねつき
ねつき、気になって、気象庁の記録、引いてみたの。今日、札幌の平均湿度、92パーセントだって

ねつき
一昨日から、こんなの。10日が91、11日が93、12日が89、13日が88、今日が92。ぜんぶ、八割九割

ねつき
しかもね、最低気温、9日から今日まで、ずっと20℃を切ってないの。夜も、冷えない

ミコ
…おかしいにゃ。札幌の夏は、夜になると涼しくなるはずにゃ
気象台が数えていなかった夜

ねつき
熱帯夜って、知ってる? 最低気温が、25℃を下回らない夜のこと

ねつき
うん。ほとんど、なかったの。札幌の気象観測が始まったのが、1879年。明治12年

ミコ
…ミコの、おばあちゃんが、屯田兵と一緒に琴似に入った頃にゃ

ねつき
それから、100年以上、熱帯夜が観測されたのは、たった二回だけ。1981年に1日と、1985年に1日

ねつき
うん。だから札幌の気象台は、そもそも「熱帯夜」って数え方に、あんまり意味を持たせてこなかったの。数えるほど、なかったから

ねつき
2019年に3日。2021年に4日。2023年に、7日。過去最多。去年も2日。急に、増えてる
湿度計は、温度計より正直

ミコ
…今日の27℃と、本州の30℃、どっちがつらいにゃ

ミコ
…温度計は、負けてる。それなのに、今日の方がつらい。なぜにゃ

ミコ
…にゃ。汗が、蒸発しないにゃ。だから、体温が逃げない

ミコ
…台所は、湿度と付き合う仕事にゃ。梅シロップの瓶、乾いた日に開けないと、蓋の内側で結露して、カビるにゃ。湿度は、温度より、料理を壊すにゃ

ねつき
ふふ。ミコちゃんの説明、料理を通ると、ぐっと近くなるね

「カラッと」の正体

ねつき
でね、ミコちゃん。もうひとつ、面白いこと分かったの。「札幌は湿度が低い」って、実は、そんなに正しくないんだって

ねつき
気象台の平年値だとね、札幌の湿度は、東京と同じか、ちょっと高いくらい。8月の平均湿度、両方76パーセント、なんて年もあったの

ねつき
うん。じゃあ、なんで「カラッと」って言われてきたか。それは、湿度じゃなくて、気温の方だったの。札幌の夏は、東京より4℃も5℃も涼しくて、夜になるとちゃんと下がる。空気の中の水の量じゃなくて、気温が低かったから、水蒸気が「重く」ならなかった。だから、カラッと感じた

ミコ
…湿度が低かったから涼しかった、じゃなくて。涼しかったから湿度が気にならなかった、にゃ

ねつき
そう、そう! 順番が、逆だったの。「カラッと」の正体は、気温だったんだ

ねつき
…湿度が同じでも、蒸し暑くなる。ずっと持ってた「カラッと」を、支えてた足場が、崩れる
エアコン、うちにはない

ミコ
…ねつきちゃん。うちのリビング、エアコン、ないにゃ

ミコ
…北海道は、ずっと、そうだったにゃ。うちだけじゃない

ねつき
そうなの。ちょっと調べたら、北海道のエアコン普及率、ダイキンの調査でも60パーセントを切ってる。全国は90パーセント超えてるのに

ねつき
うん。でね、10年前の国の調査だと、26.6パーセントだったの。それでもここ10年で倍以上に増えた

ねつき
うん。でも、今、設置業者さんが足りなくて、頼んでも1か月待ちだって。ダイキンさんは、工業高校にエアコン寄贈して、実習で据え付けを教え始めた

ねつき
うん。「エアコンのない街」から、「エアコンを付けたいけど付けられない街」に、なってる
山から、下りてこない

ミコ
…ミコの、おばあちゃんが、琴似に入ったの、1875年頃にゃ。屯田兵の一次入植と一緒に、猫又の一族が数匹、東北から連れてこられて

ミコ
…にゃ。おばあちゃんは、若い頃の話を、たまにしてくれたにゃ。夏の琴似の話、ミコ、覚えてるにゃ

ミコ
…真夏でも、夕方になると、山から風が下りてきたにゃ。畑をすーっと抜けて、家の窓を通って、反対側の窓から出ていった。それで、家じゅうが涼しくなった

ミコ
…にゃ。屯田兵の家は、風の通り道に建てるのが基本だった、って、おばあちゃんは言ってたにゃ

ミコ
…窓、両側開けてるにゃ。おばあちゃんの言うとおりにゃ。それなのに、動かない

ミコ
…山の空気と、平地の空気に、温度差があるから、風は下りてくるにゃ。山も熱くなったら、温度差がなくなる。風の吹きようが、ない
ミコが折れた

ミコ
…よくないにゃ。よくないけど。よくないと、言ってる場合じゃないにゃ

ミコ
…少しにゃ。山からの風が抜けるはずの家に、外の空気を切って室外機で回す機械を、入れる。おばあちゃんが、聞いたら

ミコ
…でも、おばあちゃんは、新しい道具を、試す人だったにゃ。古いものと、比べて、残すべきものを、選ぶ人だった。ミコは、選ばれた結果だけ、受け取ってた

ミコ
…にゃ。おばあちゃんは、今日みたいな日を経験したら、たぶん、真っ先にエアコンを見に行ったにゃ。「山から風が下りてくるから、いらん」なんて、言わなかった
夕方になっても、風は起きなかった。ねつきは寝そべったまま、扇風機の首振りをまだ目で追っていた。ミコは湿ったふきんを絞り直して、しばらく黙って外を見ていた。150年前の畑を抜けていた風は、たぶん、どこかで途切れた。
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