今日の状況
夕方。ねつきはリビングの窓辺に立って、外を見ていた。向かいの家の駐車場で、小学生の女の子がふたり、アスファルトにしゃがみ込んで、灰色の何かで絵を描いていた。ミコは台所で、切ったばかりのキュウリを塩でもみながら、ねつきの背中を見ていた。ルナはラグの上に座って、白っぽい石を一つ、手のひらでゆっくり転がしていた。窓の外の子たちが握っている石と、ルナの手の中の石は、同じ質感で光っていた。
登場人物
- ねつき: バーチャル妖狐。窓越しに、近所の子の遊びを眺めるのが好き
- ミコ: 猫族のメイド。「駄菓子屋」という単語に、少しだけ、動く
- ルナ: 白兎族。さっきから、手のひらの石を、じっと見ている

あの子たち、軽石

ねつき
ミコちゃん、見て。向かいの子ども、軽石でアスファルトに絵、描いてる

ねつき
うん。ちっちゃい白っぽい石で、ぐりぐり。線が、白く残ってる
蝋のような、と書く

ミコ
…肌触りが、蝋みたいに、すべすべしている。名前の由来にゃ

ルナ
…指で、こすっても、粉が、あんまり、つかない。ちょっと、蝋の、感じ、ですです

ルナ
…公園の、砂場の、はじっこ、ですです。落ちていました、です

ミコ
…パイロフィライトが、主成分の、緻密な軟らかい岩にゃ。日本語だと、葉蝋石。石英や長石の火山灰が、酸性の熱水を浴びて、変わったもの

ミコ
…にゃ。産地は、岡山県備前市の三石とか、広島県庄原市の勝光山。瀬戸内海のあたり
明治の学校、駄菓子屋

ミコ
…明治にゃ。学校教育が始まった頃、ロー石を、鉛筆みたいに削って、石筆と呼んだ。石盤の上で、字を書いた

ミコ
…炭酸カルシウムのチョークが、日本に量産されるのは、大正の末から昭和にゃ。明治の子どもは、石で書いていた

ミコ
…にゃ。それが、学校を出ても、駄菓子屋の店先に、束になって、置かれていた

ミコ
…一本、数円。子どもが小遣いで買って、外に飛び出して、地面に絵を描いた。石けり、ケンパ、缶蹴りの陣地。全部、ロー石の線で、引かれていたにゃ
ケンパの、線

ミコ
…地面に、四角と、丸を、描くにゃ。1、2、3、と数字を書いて、片足で、けんけんで、飛んでいく遊び

ミコ
…にゃ。地方によって、名前が違う。石けり、ケンパ、ケンケンパー、ぜんぶ、同じ遊びにゃ

ミコ
…本来は、ロー石で描いた枠のなかに、別の石を、放り込む。それを、けんけんで、順に、拾っていく。ロー石が、線と、コマ、両方を、担っていた

ねつき
線を、引く、道具じゃなくて。遊びの、盤そのものを、地面に敷ける道具

ミコ
…ろくむしも、缶蹴りも、Sケンも、みんな、地面に線がいる。アスファルトが黒板で、ロー石は、白墨だったにゃ
でも、ここ札幌

ねつき
ロー石の産地、瀬戸内海だよね。明治の学校の話も、駄菓子屋の話も、たぶん、本州、中心

ねつき
四万年ぐらい前に、支笏湖のあたりで、大きい噴火があったの。支笏カルデラ、って呼ばれてる

ねつき
そのときの軽石が、火砕流で、札幌、千歳、苫小牧、白老、って、広い範囲に、敷き詰められたの。支笏軽石流堆積物、っていう名前が、ちゃんと付いてる

ねつき
うん。それだけじゃなくて、1739年——江戸中期に、樽前山が大きい噴火をしたの。そのときの降下軽石も、札幌に、降ってる。Ta-a、って呼ばれてる層

ねつき
古い方は四万年前の火砕流。新しい方は江戸時代の降下。どっちも、軽石。札幌の地面の下は、本物の軽石が、二段重ねになってる
正解だった

ルナ
…手の中の。公園の砂場のはじっこで、拾いました、です

ミコ
…軽石は、多孔質、にゃ。溶岩が、泡だったまま、固まった。水に、浮く

ミコ
…蝋石は、蝋の質感、緻密で、穴は、無い。軽石は、その反対にゃ。触ったらすぐ、分かる

ミコ
…ガラス質で、脆いから、削れる。アスファルトの上でこすったら、粉になって、白く残る

ねつき
…じゃあ、ミコちゃん。向かいの、あの子たちの手にあるの、たぶん、本物の軽石だよ

ねつき
本州の子は、ロー石を、軽石って呼んで、間違ってた。でも、札幌の子は、地面に本物の軽石が転がってるから、軽石って呼んで、正解だったの

ミコ
…同じ言葉で、一方は間違っていて、一方は当たっていた、にゃ
みっつ、ある

ミコ
…にゃ。チョークは、また別にゃ。炭酸カルシウムか、石膏。工場で作る、真っ白の棒

ねつき
ロー石は、蝋石。工業用の、パイロフィライトから、削り出した石筆

ねつき
軽石は、火山の、泡の化石。溶岩が、ぶわっと、膨らんだまま、固まったやつ

ねつき
別なのに、アスファルトの上に、線を引く、って一点だけ、揃うの

ミコ
…柔らかくて、削れるもの。子どもの手の、力で、粉になるもの、にゃ

ねつき
それで、白く見えるもの。三つの条件が、揃えばいい。石の名前は、二の次で

お兄ちゃんの、記憶

ねつき
「お兄ちゃんが、子どもの頃、道路に絵を描いてた石、あれは、なんて呼んでた?」って

ねつき
「拾って、こすって、白い線引いてた。名前、なんて、確かめたこと、なかったな」って

ねつき
うん。四万年前の噴火と、江戸時代の噴火が、二段に敷いてくれた、本物の軽石
ルナが、手の中の白い石を、ラグの上にそっと置いた。窓の外の子どもたちは、絵を描き終わって、アスファルトに大きな片足飛びのマスを、いくつも並べていた。線は少しかすれて、白かった。ミコが、切ったキュウリを、ボウルから小鉢に移した。ミコの故郷では、たぶん、蝋石のほうだった。ねつきは窓を閉めた。
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