動かせたのは、日付だけだった

ねつきのトーク

今日の状況

夜。ねつきはベランダに出て、空を見上げていた。今日は七夕——のはずだった。けれど、頭の上には灰色の雲が、べったりと張りついている。リビングのローテーブルには、五色の短冊と、ミコが切ってきた笹の枝が一本、まだ何も結ばれないまま置かれていた。ミコは台所で麦茶のポットを冷やしながら、窓の外をちらりと見ていた。ルナはソファの上で膝を抱えて、雲の切れ間を探すように、じっと空を見ていた。

登場人物

  • ねつき: バーチャル妖狐。七夕の夜は、星を見てから短冊を書きたい派
  • ミコ: 猫族のメイド。夕方の雲の形で、今夜が曇ることは、もう分かっていた
  • ルナ: 白兎族。月の在り処を、誰よりも先に感じ取る

夜のベランダ。ねつきが手すりに肘をついて、曇った夜空を見上げている。足元には結ばれていない五色の短冊が数枚と、笹の葉が一本立てかけてある。窓の奥のリビングでは、テーブルの上に麦茶のグラスが二つ並んでいる。空は一面の灰色の雲で、星は一つも見えない


曇ってる、七夕なのに

ねつき
ねつき

…ミコちゃん。星、一個も見えない

ミコ
ミコ

…分かってたにゃ。夕方の雲、あの形は、たいてい崩れない

ねつき
ねつき

…え、知ってて黙ってたの

ミコ
ミコ

…星、見たいって、はしゃいでたから、にゃ

ルナ
ルナ

…雲の上に、あるはずですです

ねつき
ねつき

…うん、そうなんだけど


当たりが悪い日

ねつき
ねつき

…実はね、今日って、統計的に運が悪い日なの

ミコ
ミコ

…にゃ?

ねつき
ねつき

7月7日に晴れる確率、札幌だと、だいたい22パーセントしかないの

ミコ
ミコ

…低いにゃ

ねつき
ねつき

うん。東京も15パーセントくらい。仙台にいたっては7パーセント。梅雨のまっただ中に、日付を決めちゃったから

ルナ
ルナ

…毎年、曇る日を選んでいる、ですですか

ねつき
ねつき

…選んでるわけじゃないの。決めた日が、たまたま悪かっただけ

ミコ
ミコ

…そもそも、この街の七夕は、今日じゃないにゃ

ねつき
ねつき

…え?

ミコ
ミコ

…ここらへんの、ローソクもらいは、8月7日にゃ。函館は7月7日らしいけど、札幌は8月盆にあわせてる

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、それも知ってたの

ミコ
ミコ

…町内会の掲示、見たことあるにゃ。「ローソク出せよ」って、囃し歌つきで

ルナ
ルナ

…ここも、動かしたですですか

ミコ
ミコ

…にゃ。だから今夜の短冊は、全国向け。町内の子どもの七夕は、来月にゃ


七夕は、みっつある

ミコ
ミコ

…たまたま、って言うけど。7月7日って、誰かが決めたはずにゃ

ねつき
ねつき

うん。しかもね、七夕って、日本に3つあるの

ミコ
ミコ

…3つ

ねつき
ねつき

新暦の7月7日と、月遅れの8月7日と、旧暦そのままの7月7日。全部、七夕

ルナ
ルナ

…ひとつの祭りが、みっつに割れた、ですですか

ねつき
ねつき

うん。もとは1873年、明治6年の改暦がきっかけ。旧暦から、太陽暦に切り替わったの

ミコ
ミコ

…それで、丸ごと引っ越した地域と、季節に合わせて1か月ずらした地域と、旧暦のまま残した地域に、分かれたにゃ

ねつき
ねつき

…ミコちゃん、詳しい

ミコ
ミコ

…仙台の七夕まつりは、8月にゃ。あれも月遅れ。明治の改暦で廃れて、大正の終わりの不況で、もっと寂しくなってた

ねつき
ねつき

そう、それ。伊達政宗が広めた行事が、明治で廃れて。昭和2年、商店主たちが「不景気を吹き飛ばそう」って飾りを復活させて、翌年、8月6日から8日の3日間に決まったの

ねつき
ねつき

…待って。それ、さっきの、うちの町内会と同じ形だ

ミコ
ミコ

…にゃ。旧暦の季節感を守りたくて、1か月遅らせる。仙台も札幌も、考え方は同じにゃ

ねつき
ねつき

改暦の理由、よく「閏月がある年は役人の給料が13か月分になるから、それを避けたかった」って言われるんだけど

ミコ
ミコ

…それ、都市伝説の匂いがするにゃ

ねつき
ねつき

…そうなの?

ミコ
ミコ

…よく聞く話だけど、公式には西洋に合わせる近代化のため、としか説明されてない。財政の話は、裏事情として語られてるだけにゃ

ねつき
ねつき

…確かに。ねつきも、そこは言い切れなかった


本当の七夕は、まだ

ルナ
ルナ

…きつねさん。三つめの、暦は

ねつき
ねつき

旧暦の7月7日。これだけは、月の形で決まるの。国立天文台が「伝統的七夕」って呼んでる、ちゃんとした日

ミコ
ミコ

…月の形

ねつき
ねつき

うん。処暑、だいたい8月23日ごろに一番近い新月から7日後。新月から7日後は、月が半分より細くて夜遅くに沈むから、天の川が月明かりに消されないの

ルナ
ルナ

…月が邪魔をしない、日を選んである、ですです

ねつき
ねつき

…うん、そう。ルナちゃん、よく分かったね

ルナ
ルナ

…月のことは、なんとなくわかるですです。うさぎだから

ミコ
ミコ

…それで、今年の「本当の七夕」は、いつにゃ

ねつき
ねつき

…来月。今日じゃ、まだない

ミコ
ミコ

…にゃ?

ねつき
ねつき

…曇っても、いいの。今日は、まだ本番前だったから


十四光年

ミコ
ミコ

…織姫と彦星は、どれくらい離れてるにゃ

ねつき
ねつき

織姫はベガ、地球から25光年。彦星はアルタイル、地球から17光年

ミコ
ミコ

…じゃあ、8光年くらいにゃ

ねつき
ねつき

…ううん、違うの。地球からの距離を、引き算しちゃダメ

ミコ
ミコ

…にゃ?

ねつき
ねつき

2つの星、空の上では34度くらい離れて見えてて。地球とベガとアルタイルで、三角形を作るの。その三角形をちゃんと計算すると

博物図鑑のような星図。中央下に地球、右上にベガ、右下にアルタイルを配置した三角形。地球とベガを結ぶ辺に「25光年」、地球とアルタイルを結ぶ辺に「17光年」、ベガとアルタイルを結ぶ辺に「14.6光年」と手書き風の数値を記す。背景に天の川の帯を淡く描き、隅に七夕の三つの日付(7月7日・8月7日・旧暦7月7日)を示す小さな暦の断片を添える。全体に薄い黄ばみ

ねつき
ねつき

…14.6光年

ミコ
ミコ

…ふえた

ねつき
ねつき

うん。8光年より、ずっと遠い。光の速さで進んでも、織姫の光が彦星に届くまで、14.6年かかるの

ルナ
ルナ

…一年に一度、会えるはずなのに

ねつき
ねつき

うん。光でも14.6年かかる距離を、伝説は「一年に一度」って、気前よく約束してる

ミコ
ミコ

…守れない約束にゃ

ねつき
ねつき

…でも、守れない約束のほうが、ずっと大事にされてる気がする


短冊は、今夜書く

ミコ
ミコ

…短冊、どうするにゃ。星、見えないのに

ねつき
ねつき

書く。伝統的七夕は来月だし、そもそも雲は、来月だって出るかもしれないから、待っても同じなの

ルナ
ルナ

…書く、ですです

ねつき
ねつき

色にも意味があるんだよ。青は自分を育てる、赤はご先祖様への感謝、黄色は人を信じること、白は決まりを守ること、そして紫は

ミコ
ミコ

…紫は

ねつき
ねつき

学びが深まりますように。もともとは黒だったのが、縁起がいいほうに変わったの

ミコ
ミコ

…ねつきちゃんは、紫にゃろ

ねつき
ねつき

…ふふ、うん。それに決めた

ルナ
ルナ

…文月という名前も、聞いたですです

ねつき
ねつき

…よく知ってるね。旧暦の7月、文月って呼ぶの。七夕の夜に本を風にあてて、字が上手になるように祈ったのが、由来のひとつなんだって

ミコ
ミコ

…書く月、にゃ

ねつき
ねつき

うん。今夜、ちょうどいいね


曇り空の下、笹の葉に五色の短冊が下がった。紫の短冊は、いちばん上で揺れていた。ミコは麦茶のグラスを二つ、テーブルに並べた。ルナは窓の外の雲を、まだ少しだけ見上げていた。


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