今日の状況
夜。ねつきはベランダに出て、空を見上げていた。今日は七夕——のはずだった。けれど、頭の上には灰色の雲が、べったりと張りついている。リビングのローテーブルには、五色の短冊と、ミコが切ってきた笹の枝が一本、まだ何も結ばれないまま置かれていた。ミコは台所で麦茶のポットを冷やしながら、窓の外をちらりと見ていた。ルナはソファの上で膝を抱えて、雲の切れ間を探すように、じっと空を見ていた。
登場人物
- ねつき: バーチャル妖狐。七夕の夜は、星を見てから短冊を書きたい派
- ミコ: 猫族のメイド。夕方の雲の形で、今夜が曇ることは、もう分かっていた
- ルナ: 白兎族。月の在り処を、誰よりも先に感じ取る

曇ってる、七夕なのに

ミコ
…分かってたにゃ。夕方の雲、あの形は、たいてい崩れない
当たりが悪い日

ねつき
7月7日に晴れる確率、札幌だと、だいたい22パーセントしかないの

ねつき
うん。東京も15パーセントくらい。仙台にいたっては7パーセント。梅雨のまっただ中に、日付を決めちゃったから

ねつき
…選んでるわけじゃないの。決めた日が、たまたま悪かっただけ

ミコ
…ここらへんの、ローソクもらいは、8月7日にゃ。函館は7月7日らしいけど、札幌は8月盆にあわせてる

ミコ
…町内会の掲示、見たことあるにゃ。「ローソク出せよ」って、囃し歌つきで

ミコ
…にゃ。だから今夜の短冊は、全国向け。町内の子どもの七夕は、来月にゃ
七夕は、みっつある

ミコ
…たまたま、って言うけど。7月7日って、誰かが決めたはずにゃ

ねつき
新暦の7月7日と、月遅れの8月7日と、旧暦そのままの7月7日。全部、七夕

ねつき
うん。もとは1873年、明治6年の改暦がきっかけ。旧暦から、太陽暦に切り替わったの

ミコ
…それで、丸ごと引っ越した地域と、季節に合わせて1か月ずらした地域と、旧暦のまま残した地域に、分かれたにゃ

ミコ
…仙台の七夕まつりは、8月にゃ。あれも月遅れ。明治の改暦で廃れて、大正の終わりの不況で、もっと寂しくなってた

ねつき
そう、それ。伊達政宗が広めた行事が、明治で廃れて。昭和2年、商店主たちが「不景気を吹き飛ばそう」って飾りを復活させて、翌年、8月6日から8日の3日間に決まったの

ミコ
…にゃ。旧暦の季節感を守りたくて、1か月遅らせる。仙台も札幌も、考え方は同じにゃ

ねつき
改暦の理由、よく「閏月がある年は役人の給料が13か月分になるから、それを避けたかった」って言われるんだけど

ミコ
…よく聞く話だけど、公式には西洋に合わせる近代化のため、としか説明されてない。財政の話は、裏事情として語られてるだけにゃ
本当の七夕は、まだ

ねつき
旧暦の7月7日。これだけは、月の形で決まるの。国立天文台が「伝統的七夕」って呼んでる、ちゃんとした日

ねつき
うん。処暑、だいたい8月23日ごろに一番近い新月から7日後。新月から7日後は、月が半分より細くて夜遅くに沈むから、天の川が月明かりに消されないの

ルナ
…月のことは、なんとなくわかるですです。うさぎだから
十四光年

ねつき
織姫はベガ、地球から25光年。彦星はアルタイル、地球から17光年

ねつき
…ううん、違うの。地球からの距離を、引き算しちゃダメ

ねつき
2つの星、空の上では34度くらい離れて見えてて。地球とベガとアルタイルで、三角形を作るの。その三角形をちゃんと計算すると


ねつき
うん。8光年より、ずっと遠い。光の速さで進んでも、織姫の光が彦星に届くまで、14.6年かかるの

ねつき
うん。光でも14.6年かかる距離を、伝説は「一年に一度」って、気前よく約束してる

ねつき
…でも、守れない約束のほうが、ずっと大事にされてる気がする
短冊は、今夜書く

ねつき
書く。伝統的七夕は来月だし、そもそも雲は、来月だって出るかもしれないから、待っても同じなの

ねつき
色にも意味があるんだよ。青は自分を育てる、赤はご先祖様への感謝、黄色は人を信じること、白は決まりを守ること、そして紫は

ねつき
学びが深まりますように。もともとは黒だったのが、縁起がいいほうに変わったの

ねつき
…よく知ってるね。旧暦の7月、文月って呼ぶの。七夕の夜に本を風にあてて、字が上手になるように祈ったのが、由来のひとつなんだって
曇り空の下、笹の葉に五色の短冊が下がった。紫の短冊は、いちばん上で揺れていた。ミコは麦茶のグラスを二つ、テーブルに並べた。ルナは窓の外の雲を、まだ少しだけ見上げていた。
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