今日の状況
火曜の朝。お兄ちゃんは仕事に出かけて、コーヒーマグだけが机に残っていた。ねつきは机のノートPCで、昨日の夜お兄ちゃんと一緒に観ていた古いノートPC修理動画の続きを再生していた。画面の右下、本体の腹のところから、カチャっ、と細長いカードが出てきた。
登場人物
- ねつき: バーチャル妖狐。便利そうなものに、まず駆け寄る
- ミコ: 猫族のメイド。便利そう、と便利、を分けてくる

カチャって、出てきた

ねつき
ミコちゃんミコちゃん見て! 今ね、画面の中でね、カチャって出てきたの

ねつき
細長いカード! 古いノートパソコンの横腹から、こう、ボタンを押すとバネで「シャコッ」って半分顔を出してくるの。クレジットカードを少し厚くしたみたいなの

ねつき
カードの腹に白い文字で「PC Card」って書いてある。それでね、動画の人が説明してる。これ刺すとね、ノートパソコンに新しい機能が増えるんだって

ねつき
それがね、なんでもなの。LANのカード、モデムのカード、無線のカード、ハードディスクのカード——

ねつき
うん! 厚みが10ミリくらいあるんだけど、カードに薄いハードディスクが入ってて、刺すと容量が増えるの。GPSのカードもある。TVチューナーのカードもある。ねつき、これ便利そうって思った
1990年、便利そうの始まり

ねつき
含みは、あとで聞く。先に整理させて。PCカードってね、1990年に最初の規格が出てるの。PCMCIAっていう団体が作った

ねつき
Personal Computer Memory Card International Association。長いでしょ。当時のひとたちも長すぎて覚えられなくて、ジョークでね、こう言ってたんだって。読むよ
People Can’t Memorize Computer Industry Acronyms.
(人々はコンピュータ業界の略語を覚えられない)

ねつき
うん。あんまり長いから、1995年に「PCカード」って短い名前に改名したの。中身は同じ

ねつき
それからね、カードには厚みで三種類あって。Type Iが3.3ミリ。Type IIが5ミリ。Type IIIが10.5ミリ。薄いのはメモリだけ。中くらいは大体のもの。厚いのはハードディスクが入る用
マウスまで、本当に

ねつき
ねつきが調べたの、書いてあったやつ列挙する。LAN、無線LAN、モデム、HDD、SCSI、GPS、TVチューナー、サウンド出力、SDカードリーダー、それから

ねつき
PCカードのスロットに刺さるマウスがあったの。実物の記事に書いてあるから本当

ねつき
…そこ、動画でも触れてなかった。たぶんカード自体が小さい本体になってて、そこから線が出てて、線の先にマウスがついてた感じかな

ミコ
…そのマウスを使うあいだ、スロットは塞がってるにゃ
なんで消えたの

ねつき
…ミコちゃん、ねつき気になってたんだけど。これ最強じゃない? 一枚で何でもなれる。なのに、いま、ねつきもお兄ちゃんもPCカードを刺してない。スロットすらない

ねつき
…調べる。えっと、2003年に「ExpressCard」っていう後継規格が出たの。PCカードを置き換えるはずだった。でもね、これがあんまり普及しないまま、しぼんでいった

ねつき
なぜかっていうとね、その横で、USBが伸びたの。USBはケーブル一本で外から繋がる。中にスロットを切らなくていい。マウスもHDDも、USBで繋ぐ方が当たり前になった

ねつき
それから、LANも無線LANも、ノートパソコンの中に最初から入るようになった。「拡張カードで増やす」必要が、減ったの
便利そう、と、便利

ねつき
…ミコちゃん。さっきの「そう」の含み、いま聞いていい

ミコ
…ねつきちゃんが列挙したやつ、ぜんぶ一枚に刺さるにゃ。でも同時に、刺さるのは一枚だけにゃろ

ミコ
…LANを使ってるあいだ、TVは見られないにゃ。GPSを刺してるあいだ、ハードディスクは増やせないにゃ。マウスを刺したら、それ以外、全部止まるにゃ

ミコ
…「全部できる」と「全部いっぺんに使える」は、別の話にゃ

ミコ
…便利そう、にゃ。最強そう、にゃ。でも使いはじめると、毎回どれかを抜いて、どれかを刺すにゃ。それ、面倒くさいにゃ

ミコ
…USBは、ぜんぶ繋いだまま使えるにゃ。ハブを足せば、足した分だけ繋がるにゃ
机の上の、子孫たち


ねつき
USBハブがある。有線マウスがある。外付けハードディスクがある。SDカードリーダーがある。ぜんぶ、別々の箱でね、ぜんぶ繋がりっぱなしなの

ねつき
このひとつひとつ、たぶん、昔は「PCカードのなんとか版」として一枚にくくられてたものなの。LANもHDDもマウスもカードリーダーも。それが、いまは、ばらけて、別々の箱で、机に並んでる

ミコ
…散らかってる方が、ぜんぶ一度に使えるにゃ。きれいに一枚にまとまってたら、一度にひとつしか動かないにゃ

ミコ
…道具は、見た目がきれいな方が偉いわけじゃないにゃ
カチャ、の音だけ

ねつき
…ねつき、最初に動画で見たとき、あのカチャって音、けっこう好きだったの

ねつき
ボタンを押すと、バネで半分出てきて、指でつまんで抜く。新しい機能に変えるときは、別のカードを刺す。「カチャ」って音と、「シャコッ」って引き抜く感触

ねつき
USBは、儀式が薄いの。差して、抜く。バネはない。音もしない。便利だけど、ちょっと寂しい

ねつき
…ねつき、「便利そう」に弱いって、今日でよく分かった
動画の中で、もう一度「カチャ」と音がした。古いノートPCの横腹から、別のカードが半分顔を出している。今度は無線LANのカードだった。1995年から2003年あたりの八年間、これがいちばん新しい便利だった。便利そう、と、便利。あの一枚が果たさなかった約束は、いま机に散らかっているケーブル一本一本が、別々の口で、別々に、ちゃんと果たしている。
ねつきはマウスを動かして、動画を一時停止にした。USBの有線マウス。線の根元にカチャという音はない。
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