今日の状況
月曜の夕方。ねつきは出先で札幌のスープカレーをテイクアウトして帰ってきた。机に黒いボウルを三つ、ライスを別添えで三皿並べる。スパイスの匂いが机のうえに広がる。ルナちゃんがソファから移動してきて、椅子に座って、ボウルを覗き込んだ。
登場人物
- ねつき: バーチャル妖狐。匂いの強いものを買ってきて、家のなかを匂いで満たすのが好き
- ミコ: 猫族のメイド。家のなかで作られていないものに、ひとこと言いたくなる
- ルナ: 白兎族。札幌の冬を、まだ経験していない

カレー、ですですか?

ねつき
スープカレー! 札幌の名物なの。ルナちゃん、はじめて?
1971年、具が、なかった

ねつき
1971年、札幌の円山っていう街にね、「アジャンタ」っていう喫茶店ができたの。店主の辰尻宗男さんっていうひとが、漢方の養生食をやりたかった

ねつき
うん。インドのスパイスを30種類以上煮込んだスープを作って、ライスをべつのお皿で出した。名前は「薬膳カリィ」

ねつき
ここからが大事なんだけど。1971年のカリィね、具、なかったの

ねつき
スパイスのスープと、ライスだけ。薬膳だから、それで完結してたの

ねつき
ちがうの。ルナちゃんのボウルに、骨つきのチキンレッグが入ってるでしょ。あれね、1975年まで存在しなかった
客が、入れて、って言った

ねつき
1975年にね、お客さんが店主に頼んだの。「チキンも入れて」って

ねつき
うん。店じゃなくて、客から。店主は断らずに入れた。チキンレッグを丸ごと、ぼん、って

ねつき
そのあとも、お客さんが「ニンジンも入れて」「ピーマンも入れて」って続いた。店主は、それも入れた。今のスープカレーの形は、ここで決まった

ねつき
考えたのは、スープとライスのところまで。具のレイアウトは、客が積んだの

ルナ
…ねこさんは、ご主人様に、なにか頼まれて、足したことが、ありますですですか?
名前は、22年あとから来た

ねつき
それでね、ここからもうひとつ変なところ。「スープカレー」っていう名前が出てきたのは、1971年じゃないの

ねつき
札幌の中央区南三条西っていう場所に、「マジックスパイス」っていうお店ができてね、そこの下村泰山さんが、自分の店のメニューに「スープカレー」って書いたの

ねつき
それまでは「薬膳カリィ」って呼んでた。アジャンタも、1985年にできた「木多郎」っていうお店も、同じ系統のものを出してたんだけど、共通の名前がなかった

ねつき
うん。ものは22年あったの。形もだいたい固まってた。でも、ひとことで呼ぶ言葉が、なかった

ねつき
1993年に「スープカレー」って名前ができてから、いっきに広がった。札幌中の店が「うちもスープカレーやってます」って言えるようになった
ソトアヤム、っていう祖父

ねつき
それでね、「スープカレー」って名前を考えたとき、下村さんが何にインスピレーション受けたか、調べたら出てきたの

ねつき
インドネシアの「ソトアヤム」っていう料理。Sotoは「スープ」。Ayamは「鶏」。鶏のスープ。スパイスがたっぷり入ってて、ライスと一緒に食べる

ねつき
うん。骨つきの鶏が入ってて、別皿のライスと一緒に食べる。ねつき、これ知ったとき、ぞわってした

ねつき
おなじなの。だからね、スープカレーの祖先をたどると、インドネシアまで行く。札幌から南に下って、海を越えて、赤道の近く

ねつき
ねえミコちゃん、ルナちゃん、変じゃない? ソトアヤムは、暑い場所の料理なの。汗をかいて、辛いものを食べて、もっと汗をかく
寒いから、温まりたかった

ねつき
辰尻さんがアジャンタで作りたかったのが、漢方の養生食、だったでしょ

ねつき
漢方ってね、ざっくり言うと、身体を内側から温めて、巡りを良くしようっていう考え方。スパイスは温めるの。生姜も温めるし、シナモンも温めるし、唐辛子も温める

ねつき
札幌の冬って、最高気温が氷点下の日が普通にあるの。部屋を暖房で温めても、身体の芯まで届かない日がある

ねつき
そういう場所だから、暑い国のスパイスのスープが、必要だったの。汗をかくためじゃなくて、芯まで温めるために

ねつき
うん。それで、北海道で採れるニンジンとかぼちゃとピーマンを足した。札幌の冬に合わせて、組み立て直した

ねつき
そう。札幌のお客さんが「これも入れて」って積んだ具は、北海道で採れるやつだった。寒い場所のひとが、暑い場所のスープに、自分の場所のものを混ぜ込んだ
食べ方は、決まってない

ルナ
…ライスは、スープに、入れますですですか? べつべつに、食べますですですか?

ねつき
ライスを少しずつスプーンで掬って、スープに浸して食べるひとがいる。スープを掬ってライスにかけるひともいる。スプーン一杯ずつ別々に口に運ぶひともいる

ねつき
ぜんぶ、正しい。お店も「お好きな食べ方で」って言うの

ミコ
…名前が決まったあとも、食べ方は、決まってないにゃ

ねつき
うん。スープと、ライスと、具と、ぜんぶ別々に出てきて、口の中で混ぜる料理。混ぜ方は、食べる人が決める

あたたかいですです
ルナがスプーンでスープを掬って、口に運んだ。それから、ライスを少しだけ、スプーンの背でスープに沈めた。ボウルを両手で持って、息をひとつ吐いた。
机のうえで、ボウルから細い湯気が三本のぼっていた。三人とも、別の食べ方で、別の手順で、口に運んでいた。1971年に喫茶店の店主が出した具のないスープに、客が4年かけてチキンを足し、それから野菜を足し、22年かけて名前がついて、半世紀かけて札幌中に広がった料理は、いま、三人の机のうえで、まだ少しずつ形を変えていた。スパイスの匂いと、温まった身体だけが、最初から最後まで同じだった。
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