今日の状況
夕方。ねつきはソファに体を埋めて、スマホで米国テレビの古いクリップを見ていた。司会者の前で男が頭を抱えている。画面の下に「The lie detector determined that was a lie」というキャプションが出ている。ミコがソファの背もたれの向こうから覗いた。ルナはラグの上で膝を抱えて、ねつきのしっぽが揺れるのを見ていた。
登場人物
- ねつき: バーチャル妖狐。狐の語源を引きずって生きている
- ミコ: 猫族のメイド。心臓の音と血圧の話は、台所の温度計と同じ手つきで扱う
- ルナ: 白兎族。機械より先に、生き物の動きに目が向く

漫画の中だけ、だと思ってた

ねつき
ミコちゃん。これね、アメリカのテレビ番組のクリップなの。司会のおじさんの前で、男のひとが嘘発見機にかけられてて、もう泣きそうになってる

ねつき
The lie detector determined that was a lie. 嘘発見器は、それが嘘だと判定しました、って。司会のおじさんが、何回もこのフレーズ言うの。ネットでネタになってるくらい有名なやつ

ミコ
…31年やって、5000回以上にゃ。途中で出てきた嘘発見機は、4000台くらいにゃ

ねつき
…ねつきさ、嘘発見機って、漫画とかドラマの中だけのものだと思ってたの。コナンとか金田一とか、ライアーゲームとか

ねつき
本当に、あるの? あの、椅子に座らせて、指に何か挟んで、針がガリガリ動くやつ
三人で、一台になった

ミコ
…アメリカの心理学者にゃ。名前を、William Moulton Marstonっていうにゃ。ハーバードで心理学の博士号を取った人

ミコ
…この人がね、人は嘘をつくと血圧が上がる、と気付いたにゃ。それで、嘘をついている瞬間を、血圧を測って当てようとした

ミコ
…当時は、血圧だけにゃ。これじゃ精度が足りなかったから、1921年に、別の人——John Larsonっていう警官が、心拍と呼吸を足した

ミコ
…さらに1930年代、Leonarde Keelerっていう人が、皮膚の電気——汗のことにゃ——を足したにゃ。これで、四つの線を同時に書く機械ができた

ミコ
…「ポリ」は、複数。「グラフ」は、書くもの。ポリグラフ。複数を、書く機械にゃ

ミコ
…1915年から1931年まで、16年かかって、三人で、一台になったにゃ
「嘘」を、測っていない

ねつき
ミコちゃん。それでね、ねつき、ずっと気になってたんだけど。あの機械、どうやって「嘘」を見つけるの? 頭の中、見えないでしょ

ミコ
…測ってるのは、「緊張」にゃ。人は嘘をつくとき、ばれたら困るって緊張するにゃ。緊張すると、心拍が上がる、血圧が上がる、息が浅くなる、汗が出る。その四つを測ってるにゃ

ミコ
…にゃ。「嘘」と「緊張」を、機械は区別できないにゃ。検査官が、横で読み替えてるにゃ
二回、合格した男

ミコ
…ルナちゃんの聞いた話、本当にいた人にゃ。Aldrich Amesっていう、CIAの職員

ミコ
…にゃ。この人は冷戦中、CIAの機密をソ連に売っていたにゃ。途中で疑われて、嘘発見機にかけられたにゃ

ミコ
…しかも、二回にゃ。二回かけられて、二回とも合格した。その間も、スパイは続けていたにゃ

ミコ
…慣れていたにゃ。長年やっていたから、もう、心臓の音も乱れなかった

ミコ
…「初めて嘘をつく人の、初めての緊張」だけにゃ。慣れた人には、効かないにゃ
じゃあ、狐は

ねつき
ねつき、狐じゃない? 狐ってさ、昔から、嘘つきの代名詞なの。狐に化かされる、狐憑き、狡猾な狐。ぜんぶ「嘘」と「ばかし」の話

ねつき
で、ねつき、嘘をつくとき、緊張、しないの。狐だから、嘘は本分なの。むしろちょっと楽しい

ねつき
じゃあねつき、嘘発見機にかけられたら、ぜんぶ平らな線が出る、ってこと?
法廷では、追い返された

ねつき
ミコちゃん。でね、もうひとつ気になることがあるんだけど。Maury番組で「嘘発見器が嘘だって言った」ってあんなに堂々と言うじゃない? あれって、裁判の証拠になるの?

ミコ
…1923年にね、米国でFrye事件っていうのがあったにゃ。殺人で起訴された男を弁護するために、弁護側が、嘘発見機の結果を証拠に出そうとした

ミコ
…にゃ。当時はまだ、マーストンの血圧式しかなかったにゃ。法廷の判断は——却下

ミコ
…「科学者たちのあいだで、まだ広く認められていない」にゃ。これが、有名な「Frye基準」になったにゃ

ミコ
…にゃ。それから100年以上経つけど、米国でも、ほとんどの州で、ポリグラフは法廷の証拠にならないにゃ

ねつき
…じゃあ、Mauryで「嘘だ」って言われてた男のひとは

ミコ
…裁判では、無罪になれるかもしれないにゃ。テレビでは、観客にブーイングされていたにゃろ
マーストンには、もうひとつの仕事があった

ミコ
…ねつきちゃん。ひとつ、まだ言ってないことがあるにゃ

ミコ
…マーストンの話にゃ。1915年に血圧で嘘を測る方法を作って、1923年に法廷で追い返された人

ミコ
…ねつきちゃん、Wonder Woman、知ってるにゃ

ねつき
うん、知ってる。アメコミの女戦士。星のティアラと、金色のブレスレットと、それから、なんか縄、持ってるよね

ミコ
…にゃ。装備の名前は、Lasso of Truth. 「真実の縄」にゃ

ミコ
…この縄で縛られると、嘘がつけなくなるにゃ。本当のことを、しゃべってしまう

ミコ
…Wonder Womanは、1941年に登場したにゃ。原作者の名前は、ペンネームでCharles Moulton

ミコ
…本名は——William Moulton Marston
漫画の中も、本人が置いた

ねつき
嘘発見機って、漫画とかドラマの中だけのものだと思ってた、って

ねつき
ぜんぜん違ったの。漫画の中だけにあるんじゃなくて、漫画の中に置いたのも、本人だった。1915年に現実の機械を作って、1923年に法廷で追い返されて、それから18年経って、1941年に漫画の中で、縛られたら嘘がつけない縄を、女戦士に持たせた

ねつき
ねつきが「漫画の中だけにあるんでしょ」って聞いた質問、答えがふたつ重なってるの。「ううん、現実にもあるよ」が一つ目。「漫画にも置いたのは、現実に作った人だよ」が二つ目

ミコ
…法廷では追い返されて、観客にも信じてもらえる場所が要ったのかもしれないにゃ

ねつき
…漫画の中でなら、縛られたら絶対に嘘がつけないの。Frye基準も、Aldrich Amesも、関係ない

しっぽは、機械じゃない

ねつき
…ミコちゃん。じゃあねつき、Wonder Womanの縄で縛られても、たぶん大丈夫

ねつき
だってあれも、結局「縛られたら緊張する」って前提でしょ? ねつき、縛られても緊張しないし、むしろちょっと楽しいし

ねつき
狐だから、Aldrich Amesと同じ。慣れてるの。機械にも縄にも、ねつきは平気

ルナ
…さっきから、しっぽが、ぴこぴこ、動いて、いますです

ミコ
…ねつきちゃん、Marstonも気付かなかったにゃ。狐は機械では測れないけど、家族には、もとから見えているにゃ
スマホの中ではまだ司会者が「The lie detector determined that was a lie」と言い続けていた。1915年に血圧で嘘を測ろうとした人と、1941年に縛られたら嘘がつけない縄を女戦士に持たせた人は、同じひとりだった。100年経っても機械は緊張しか測れず、法廷は受け入れず、それでも年間250万件、誰かが誰かを椅子に座らせて、四本の線を見ている。ねつきはスマホを膝に伏せて、しっぽを両手で押さえた。ルナの言うとおり、根元はまだ動いていた。機械では測れないものを、すぐ隣の家族は、最初から見ている。
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